「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』そこでアブラムは申し上げた。『神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。』さらに、アブラムは、『ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう』と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。『その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。』そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。『わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。』」
創世記15章1-7節
さて、↑の箇所は紀元前おおよそ1800年くらいの頃の話。ノアの洪水から時代は進み、人類はまた世界中に増え広がって行きました。そんなある頃、アブラハム(最初はアブラムという名前)75歳、サラ(最初はサライという名前)65歳の夫婦は神様が、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という神様の約束を信じて旅立ちました。
しかし、大いなる国民とする、と言われたにもかかわらず、待てど暮らせどいつまでたっても子供が彼ら夫婦に与えらえる事はありませんでした。まあ、肉体的年齢を考えれば分からないこともないのですが、その彼らに神様が与える、と約束したのに、と不安になり始めます。
実はこのアブラハムという人は新約の時代になっても(イエス様が誕生された今から約2000年ほど前)、それから2000年近くたった今でも、信仰の父と言われるほどの人物。しかしやはり人間とは弱い者で、どんなに優れている、と言われようとも不安になる事は誰にだってある。逆に何にも不安な事はありません、と言える方もまたすごいなあ、と思いますが。
でも、このアブラハムさんという人が素晴らしいのは、約束を守らない、自分の願いを叶えない神様などいらない、と捨てなかった。口ではあれこれいいことを言っても何もしないじゃないか、と神様を捨てる事などしなかった。それでも、アブラハムは「神、主よ」と呼ぶのです。彼を贖い出したのは、彼を生まれ故郷から連れ出されたのは神様じゃないか、ならばこの神様を信じないでどうするんだ?と。
ふと、今この文書を書きながら思わされたのですが、神様のアブラハムへの計画は、75歳と65歳の夫婦の間に子どもを与えよう、そうしたらわたしの名前に箔がつくよな~とかそういうものではないんです。神様のアブラハムへのご計画は、彼が幸せになる事です。彼は偶像崇拝の盛んな国に住んでいて彼はその中で喜びを見いだせずにいた、その彼を神様がとらえ(逮捕ではないですよ?)、彼を神様の恵みの中に引き入れられたのです。彼の旅そのもののは神様の御手に引かれていつも、神様が共におられ養われ、霊肉共に増やされ続けていたのです。その中で、子孫が増えイスラエルの父祖となって行くとか、様々なことがなされていくわけです。
彼は、神様に空の満天の星々・まあ現在を生きる私たちでは町明かりで星空の素晴らしさを見る機会など中々ないでしょうが、これを見せ、あなたの子孫はこのようになる、と約束しました。しかし、増やすのは、この満点の星々を、天地万物を造られたわたし・神様がなすからね、そう約束されたのです。あなたを連れ出したわたし・神様がする、と。
彼は、何を信じたか。その約束を?もちろんそれもありますが、それがメインではなく、「神様が」その約束を果たされる事を信じたのです。約束だけを信じたことを神様が義と認めたのではなく、神様ご自身を信じた、これを神様は喜ばれたのです。そして、あまりに長くなるので今日は省略しましたがこの後、もし約束を破るなら、自分の実を引き裂こう、と履行責任を自らに負わせたのでした。神様は自らのいのちをかけてでも契約を履行される、彼をあらゆる意味で幸せにすると約束されたのです(子孫繁栄だけにとどまらずに)。そして彼が100歳の時、神様の憐みによって約束を履行され、彼に約束の子どもを与えられたのでした。しかもこの時の約束通り平安のうちに神様の元に帰って行ったのでした。
↑の話を読むと、アブラハムが特別だったから神様は幸せにしたい、と言ったわけではない。その思いは誰しもにも持っておられるのです。神様を知らず、神様から離れ罪の中に、悲しみの中に、サタンの手の中にとらわれ悲しみ苦しむ私たちがそのままでいる事、滅びゆく事など我慢できなかったのです。だから、神様との関係を破って本来その身を引き裂かれなければならない私たちの身代わりに、御子イエス様を十字架上で身代りに咲かれ、死なせ、またよみがえらされたことによって、神様は私たちとの本来あるべき親子関係に引き戻されたのです。契約履行を私たちに求めるのではなく、神の御子たるイエス様に求め、負わせたのです。
あり得ない話。しかし、神様はそこまでしてでもあなたの幸せお願われる。神様はアブラハムを罪の世界から連れ出されたように、私たちを罪の奴隷・暗闇の中から、御子イエス様のいのちによって買い戻し連れ戻されご自身のもの・子としてくださったのです。あなたの全部・生涯は神様の御手の中にあるのです(支配されるという意味ではなく)。
ならば神様ご自身を疑ってどうします?自分の思う通にいかない、聖書ではこう言っているけど、あの人はうまく言っているけど自分は…などとどうして嘆く必要があるでしょう。神様は、あなたとの間に契約を結ばれるのです。御子イエス様のいのちにあって。神様と私たちを結ぶのは口約束ではない、私たちの努力でも願望でもない、宗教行為でもない、御子イエス様の十字架が神様と私たちを繋ぐのです。御子イエス様にあって私たちは神様と和解させていただいたのです。御子イエス様を自分の罪のための救い主としてあなたが受け入れるなら。
あなたが何と言おうと、神様はあなたを愛し、あなたに恵みを、愛を、御心を現そうとされている事実は変わらない。かのイエス様の十字架にかけて。その恵みは星空の数どころの騒ぎではない。私たちはもう一度この宗教改革記念日の今日、あなたを神様がいかに愛されているのかを思い、イエス様によって贖われた・買い戻されたこの関係の中、神様に信頼し歩もうではありませんか。神様が、御子イエス様にかけてあなたを保証し、持たれている大いなる計画に信頼し。