ー私たちが求めるべきことはー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』」

ルカによる福音書189-14

 

私たちは神様がいなくたって、神様に頼らなくたって生きていける、そんな風に考えやすい。でもそうだろうか?私たちは神様の憐みなしでは本当の意味で生きることなどできない。

 

さて、神の御子たるイエスキリスト様が人となってお生まれになり(といっても天地創造の前から存在はされていたのですが人となって来られた、という意味で)人々の間に住まわれ、神様の愛を思う存分現していたときにある宗教家たちとのやり取りがあった時に↑のようにイエス様はたとえ話をされました。

 

パリサイ人というのは当時の宗教家。一応は神様の存在は認めている。でも、行いが中心になって、神様を愛するよりも、行いをしている自分が素晴らしいでしょう?と自分たちの栄誉、名誉を求めていた。そうしたもので着飾っていた人たちでした。だから神様を愛する、と言っていながら中身が伴っていなかった。宗教行為は、行事は一生懸命やる、でも、形だけ。イエス様はその本質を見抜いていたのでした。

 

一方、取税人というのは、当時イスラエルを統治していたローマ帝国に税金を納めるべく、同胞イスラエルの民から税金を取っていた、まあ民からしたら裏切り者と思われていたでしょうね。しかもたまに多くお金をだまし取って袖の下にいれていたくらいですから、相当嫌われていました。

 

そんな2人の祈り(たとえ、と言っても実際はこんな祈りなどざらに当時、全てではないにしてもパリサイ人はしていた)が↑。イエス様は、神様はどちらの祈りを喜ばれた、と思いますか?と問い、この取税人、どうみても罪(すべての人は神様の前に罪を犯しているので罪人じゃない人なんていないのですが)を犯している罪人の取税人の方が受け入れられた、と答えるのです。

 

じゃあこの2人の違いは何か?パリサイ人の問題は、自分はあれしている、これしている、すごいでしょう?と自慢した事?違う。↑にも書きましたが神様をまあそれもあるんですけど、彼は神様に対して取り引き的に私はこれをしたんだからこうしてくれるのは当然、とゆすり、神様の前に不正をし、自らを神のようにする姦淫を犯していた。彼は自分の名誉、自分を聞かざる行為だけを追い求めていて神様を必要としていなかったのです。神様が本来彼に計画しておられる恵みを、私はこれだけ一生懸命やって生きているからいらないわ、と求めなかった。

 

しかし、取税人は違った。彼は自分が神なしで罪を犯してきた虚しさを知っていた。どんなに金を追い求めても虚しいだけであること、自分を本当に満たすことができるのは、神様だけ、そして、自分をお金持ちにしてください、とかそういうことを求めるのではなく、ただ「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と、自分が罪人であることを認め、罪の赦し、神様の憐みを求めた。

 

神様は見かけだけの謙遜を求めるのではない、神様あなたなしでは私は何もできません、生きることなどできません、という神様の前に遜る心を喜ばれる。神様は罪を喜ばない。罪の本質は神様を神様としない、神様から離れている事、そこにある。何も犯罪だけじゃないんです。神様はそんなパリサイ人のような着飾った形だけの行為なんか喜ばない。神様の恵みと憐れみをただ求める事、それを喜ばれる。

 

じゃあ取税人の罪は?見逃された?いえ。私たちのこの罪も、取税人の罪も、その祈りのごとく、神様は応えてくださった。憐れんでくださり、私たちが罪に依って罰せられるのではなく、御子イエス様にその罪を身代りに背負わせ、身代わりに罰し、身代わりに死なせ、またよみがえらせてくださった事によって、この取税人のように罪の赦しを、あわれみを求める私たちと和解を果たしてくださるのです。

 

その時、私たちが自分で努力しようと着飾っているプライド、経験、知識などに遙かに勝る神様の恵みがあなたを覆われる。あなたを罪の奴隷、むなしいものに、行為に支配される奴隷ではなく、神様の子とされ、あなたの内にイエス様が住まわれ、あわれみ・ご愛を、御心をあなたの内に成されるのです。御子イエス様のいのちを身代りにしてでもあなたを愛された神様の愛が、御心が。このイエス様にあって和解されたこの関係の中にこそ、私たちはいのちを得るのです。十字架によって罪赦され、あわれみを受けただけではない、キリストの愛があなたを覆う。

 

神様はご自分の御子を差し出してまでもあなたの内に愛を注ぎたかった。あなたが虚しい、いのちのない者によって支配される、サタンの手に支配されているあなたを見るのを忍びなかった。あなたを愛するがゆえに。神様はあなたに御子イエス様とともに最高のものを、順境の日であろうと逆境の日であろうといつも用意してくださっているのです。イエス様の十字架による死と復活によって、私たちは新しくされるのですから。

 

あなたは今日、神様に何を求めるだろうか?お金?成功?そうしたものではないにしても、私たちは何より、イエス様にあってなされた和解、このうちに生きよう。神様なしでは生きていけないということを認め、ただ神様の憐みをもとめ、恵みを求め歩もうではありませんか。神様は自分たちが思うよりもはるかに深い憐みをもってあなたに応えて下さる。あなたはこれを信じますか?