「ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。『この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。』」
ハガイ書1章3-8節
私たちは救われたからあとは好きに生きるのではない、空しい物で自分を建て上げてはいけない。神様はあなたを罪の奴隷から神様の子へと引き上げるべく、御子イエス様を十字架に架けて死なせてまでも取り戻されたのだから。私たちは神様に大いに期待しよう。明日の宗教改革記念日を前にもう一度、救われた恵みを思い出したい。
さて、↑の話はバビロン捕囚から帰って来たイスラエルの民に、ハガイという預言者を通して神様が語られたことば。彼らイスラエルの民は、神様に徹底的に逆らい続けた。神様が彼らをエジプトの奴隷状態から救い出され、かつて先祖たちに約束した地に、途中さんざん逆らいながらもそれでも憐みによって連れ出され、その王国も神様の祝福によって霊的にも肉的にも恵まれていたのに。別に神様なんていなくても生きて行けるし、自分たちが好きなように生きて何が悪いの?と言わんばかりに神様の嫌う(宗教的な事抜きにしてもモラル的にもあらゆる面で)ことを繰り返し、ついに彼らは来たイスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロンに捕囚されたのでした。
徹底的に自分たちが誇っていた王国は撃ち砕かれ、かつてあらゆる国の人々が褒め称えたその神殿の栄光も離れ、崩れ去ってしまった。もう神様が見捨ててしまわれたのか?しかし神様は捕囚前からその御手を伸ばされ、悔い改めの機会を与えて下さっていた。預言者を遣わし、またその御業を彼らの内に現しながら、本来あるべき彼らの姿、神様の恵みによって建て上げられていくその素晴らしさを示していた。しかし彼らはそんなものは自分たちの何の役にも立たない、と拒否した。
でも、神様は捕囚にあっても70年後に、罪の償いが終わった後解放する約束をされ、捕囚地にあっても神様は助け人や不思議な業を行われ、彼らを守られていたのでした。神様の憐みは尽きなかったのです。解放の際には異国の王によって彼らをとらえる国を打ち破り、彼らに何の得がないだろうにそれでもイスラエルの民を解放させるという神様の大いなる業によって、彼らは自分たちの地に帰って行ったのでした。
そんな彼らは最初はもう一度神殿を建て直そう、神様に大いに期待しよう、そうむねをふくらませ、取り組んでいました。しかし現状バビロン捕囚によって破壊しつくされた現実、また現地や周辺地域からの妨害によって、この工事は中断を余儀なくされるのでした。
彼らはそれでもまあ何とか生きていけているし、自分たちは自分たちの好きなように生きればいいや、神様いなくても大丈夫だよね、と自分たちの好きな家・人生を自分で建てようとし始めるのでした(ちなみに、↑にある板張りの家というのは当時としては結構いい家。自分の好きなもので家を飾って組み立てていた)。
そんな彼らに向かって神様は、「今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ」と訴えるのです。確かに自分たちの好きなもので自分の家、人生を建て上げているが、あなたがたの内に喜びがないではないか、いのちがないではないか、その現状をよく考えなさい、そう訴えるのです。
彼らは大事な事を忘れていたのです。確かに今の現状、廃墟となった町、神殿、周辺国からの問題はある。しかし彼らを救い出されたのは神様。神様が彼らを救い出し新しいいのちの道へと導き出されたのに、神様がその御手によって今彼らとともにあるのに、その神様を引き算して、信頼せずに、期待せずにどうする?神様が彼らをご自身のものとするべく救い出された、その神様に期待しないでどうする?彼らに神様が訴えているのは自分の現状以上に、もう一度自分たちが誰によって救い出され、今誰が共におられるのか、それを思い出すよう訴えるのです。
先日私は、私たちのアイデンティティをもう一度確認しましょう、ということを書きましたが、私たちは誰ですか?神様によって造られた存在ではないですか。神様は、私たち人間の両親でさえ子どものために最善のものを用意するのですからそれ以上に私たちのために最善の、すべての必要を用意してくださっていた。それにもかかわらず私たちはその神様を信頼せず、神様を捨て、神様を自分の人生の役に立つか立たないか程度にしか「利用」しない私たちを、それでも見捨てられず、私たちのために神の御子たるイエス様をお遣わしになられた。
そして、私たちがこの神様から離れて言ったこの罪ゆえに見捨てられ、滅びゆくしかなくなった、破壊尽くされたエルサレム神殿のごとくどうにもならない状態にあった私たちを癒し、救い出し、また建て直すべく、捕囚民・罪の奴隷であった私たちの罪を身代りに背負われ十字架で死なれ、葬られ、また3日目に死人の内よりよみがえられたことによって、私たちの罪も重荷も、病も痛みも、すべての問題をその十字架上で打ち勝ち葬られ、そのよみがえりと共にイエス様を信じる人を、信じるなら私たちは神様の家族に、子として迎えられたのです。イエス様のいのちをもって買い戻されたのです。
私たちはこの現状を忘れてはいないだろうか?私たちは自分の手で、自分の役に立ちそうなもので、自分の見栄えを良くするために、神様以外の何かを捜し求めて、家を、私たち自身を建てようとしていないだろうか?それでは捕囚前、罪人であった時と変わらない。しかし私たちがただ十字架を知識として終わらせるのではなく、自分を主の前にお返しし、主としてイエス様をお招きするなら、↑と真逆になり、「多くの種を蒔いたので多くを取り入れ、与えられたその恵みによって霊肉共に食べて満足し、聖霊様に酔いしれ喜びに道、私たちをキリストの愛で暖めて下さる。あなたの働きは虚しい物にはならない」のです。
パウロは、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」と訴えました。
私たちはキリスト共に十字架に付けられ、今やキリストイエス様が私たちのうちに生きておられる。主があなたの内に住まわれ働かれるのです。宗教改革記念日を前に今一度この十字架の恵みを覚え、主に立ち帰り、キリストのいのちの代価をもってあなたは神様のものとされた、この大いなる恵みを無にすることがないよう、日々主に祈り、御言葉に聞き、養われ、歩もうではありませんか。神様は古いあなたに帰らせるためにイエス様を十字架に架けたのではない、神様の子として回復させたて新しく建て直すために御子イエス様まで十字架に架けた、この素晴らしい愛とご計画に大いに期待しようではありませんか。