「『その時、―主の御告げ―わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる』。主はこう仰せられる。『剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。』主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」
エレミヤ書31章1-6節
神様は、回復させる神様。建て直される神様。私たちを喜び笑わしたい神様。だから神様は私たちにその御手を伸ばされた、いや今日も伸ばされている。私たちはこの神様に信頼し、歩みたい。
さて、↑のことばは紀元前。アッシリヤ捕囚の時、剣を逃れて捕囚になって生き残った人たちに対する神様のメッセージ。この北イスラエルの民はともかく徹底的に神様から離れて行った。彼らは神様が自分の神であることを拒み、自分たちが神となる道を選び進んで行った。自分が神となり自分の都合のいいものを利用する。もしこれが人間だったら、こんな裏切り者、自分を良いように利用するだけ利用してすれるものなど見捨てる。
でも神様は彼らを見捨ててはいなかった。いつも彼らが悔い改める機会を示され、預言者を遣わし、神様に帰り命を得るよう訴え続けた。それでも拒否し続け捕囚になった。ざまあみろ、と神様は思っただろうか?いや違う。神様の思いはまさに↑にある。何もかも失い、希望を失った中に、「神様が」恵みを建てられた。なおその御目を注がれている、だから神様の元に帰って休みを得るよう、訴えるのです。
それすなわちどういうことかわかります?神様は見捨てていない、というんですよ。信じられます?これが神様の愛なんです。神様は「あなたの神となる」と宣言する。それは支配しよう、という意味ではない、神様が彼らをそれでも養う、という約束です。養うから、傷ついた彼らを、崩れ去り闇の中、絶望の中にいる彼らを建て直す、と。人間の価値からしたらあり得ない話でしょう。でも、これが、神様の愛なのです。
私たちは神様を、そこいらにある偶像や宗教と並べたり、宗教家、有名人、また偽の神々と並列に並べる。神など信じたってどうせ無駄でしょう?と。しかし、それらの何が、誰があなたに対して責任を持ち続けることができるだろうか?しかし、神様は、あなたを造られた、あなたの生まれる前からあなたに良い計画を持ち、造り、ご自身の似姿・イメージに、ご性質だけではない、その思いを込めていのちの息吹を吹き込み生きた者としてくださった神様。その神様はあなた自身が神様から離れて傷ついていくことが我慢できないのです。
だから当時滅茶苦茶な王たちの中にあっても預言者たちを遣わし訴え続け、ここにまことの神様がいるんだ、ここに帰るように、と訴え続け、また捕囚にあってもなお、それでもあなたが帰って来ることを待っている、とその愛の訴えを、御手を引っ込めることをされていなかったのです。神様はあなたという人を、あなたそのものを愛しておられる。だからあなたが神様を知らずに、神様を疑い離れ、命を失っていく事、神様のくださるすばらしい物を受けずに苦しんでいく事など我慢ならない。
だから、神様は私たちが何もない、荒野のような状態になっている、罪の中で苦しみ、世にあっては患難苦難、多くの闘いの中で疲れ果てている、そのような状態を建て直すべく、その荒野に恵みを建てられた。休ませ、またいのちを得させるべく、私たちの魂の安らぎ場を与えるべく。それは何か?神の御子たるイエスキリスト様です。
私たちが神様を疑い、捨て去るような私たちに対して、その永遠の愛、誠実を形にあらわすべく、神の御子たるイエス様を、人となって生まれさせてくださったのです。どこか遠くにおられて時々助けるのではなく、彼らの、あなたの現実の中に来られたのです。そして、彼らの、私たちの重荷を、病を、思い煩いを、痛みも、何より罪の罪状・サタン・死への捕囚を身代りに引き受け十字架に架かられた。何にもしないでいきなり十字架に上られたのではない。人々の間を練り歩き、すべての痛みをその身に負われ、癒すべく、また私たちのその罪状・裁きをその身に負われ十字架で身代りに死なれた。そしてよみがえられたことによって、私たちをその捕囚から、裁きの捕囚から、サタンの手から取り戻し、神様の子としてくださるのです。
その時、神様は私たちの神様として保護され養われる。イエス様が私たちの内に住まわれ、私たちの休みの場となる。慰めを受け、またあなたの壊れた家を、魂を、罪に傷ついたあなたを建て直し、神様の御心があなたを建て上げて行くのです。タンバリンで喜び笑うあなたへと導かれるのです。どんなに苦難困難の日であろうと、順境の日であろうと逆境の日であろうと。神様が御子イエス様を与えるほどに聖日に愛を示された神様が、あなたの内に実を結ばせ養い続けて下さる。
私たちは神様が遠い存在であるかもしれない。しかしあなたの最も身近な存在となるために、人となって来られ、また罪の奴隷・死刑囚としてではなく神様の家族という素晴らしい中に招き入れるためにいのちさえ惜しまず与えられた。この十字架の元に神様は私たちを招かれる。誠実な、永遠の愛の結晶たる十字架に。そして私たちがこの救いを受け入れるその瞬間から、あなたはもう捕囚民ではない、神様の子として迎え入れられ、神様があなたの神となられる。北イスラエルのように民を滅茶苦茶にした王としてではなく、あなたを本来神様の計画しておられた最高のあなたにされ、養い導かれる。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に」今日、出て行こう。主は今日、あなたをこの喜びの家族に加えようと待っておられる。