ー尽きさせない神様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「すると、彼に次のような主のことばがあった。『さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。』彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。『水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。』彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。『一口のパンも持って来てください。』彼女は答えた。『あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。』エリヤは彼女に言った。『恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。「主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」』彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」

Ⅰ列王記178-16

 

私たちを本当に満たすのは経済でもなければ、地位や名誉でもない。神様だけが私たちを満たし続けることができる。私たちは本物の生きた神様にもっともっと求め続けよう。何を?神様のくださる恵みを。御心がなる事を。

 

さて、↑の話は紀元前イスラエル王国分裂時代に起こった出来事。当時の北イスラエルの王はアハブという王でした。彼はまあ国を治める分には実績は残しました。大きな宮殿を建てたり強力な軍隊を持ち、また強力な軍隊を持っていました。また外交面も友好関係を他国と持ったりと、ある意味では成功していた。

 

ある意味でこういう成功は人の求める物でしょう。でも、彼は神様を求めはしなかった。むしろ神様の忌み嫌われる事をしていた。神などいなくてもわたしは成功しているし、むしろ異国の考え方を取り入れ、それをうまく「利用」し自分の成功へとつなげよう、と自分の器を自分の選ぶ良い物で満たそうとして、異国の宗教を取り入れ、神殿娼婦、子どもを火にくべる…本当に恐ろしい行為によって民は苦しめられていった。そのアハブに裁き・裏返せば悔い改めの機会を神様は示すべく、2-3年に及ぶ大飢饉をもたらした、その状況の中から↑の話が始まります。

 

そんなおり、北イスラエルで預言者として神様のメッセージを届け活動していたエリヤに、神様はある一人のやもめの家に避難するように、と伝え、エリヤはその家に向かいます。しかし現状雨も梅雨も降らず、飢饉の状況にあってその家には食べる物もありません。そのやもめの女性も、最後に残った一握りの粉とわずかの油でパンを作って食べた後、子どもと一緒に死のう、そう思わざるを得ないほどの状況になっていたのでした。

 

するとエリヤは、神様が「主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」とおっしゃるのだから、恐れないでと彼女に伝えると、本当にそのようになった。もう一握りしかなかったパン粉も油も、尽きることなく毎日エリヤと子供、やもめ3人を食べさせるのでした。

 

私、この箇所を読みながら思ったのは、この奇跡はエリヤがすごいのではない。何か特別なツボだったわけでもない。そう、エリヤが奇跡を起こしたわけではないのです、エリヤを通して「神様」が瓶と壺に、パン粉と油を「満たし続け」ていた、養い続けていたのです。何もない、飢饉、空っぽの器を。起った奇跡の内容がすごいのではない、神様により頼む人を神様が養い続けた、そのことが素晴らしいのです。

 

私たちは時々間違うのは、神様を蛇口のように自分の都合のいい時にいっぱいに自動的にしてくれる「便利な」存在と考えてしまう。あくまで自分にとっての都合を満たす便利な存在、と。それはアハブと何にも差し当たって差はない。まあまことの神様を求めているならそれはまだいいんですけど。アハブはある意味でそれを求めてあっちこっちの宗教に手を出して言った。神様に求めず、自分が便利だと思う物によって満たされようとしていく。神様が満たして建て上げようとしているものに対して、私の欲する物はこれではない、と拒否をし続けたのです。これ、本当に私たち、陥りますよね。

 

でも神様はエリヤや子供、やもめの3人を養い続ける事で彼らの生涯を神様の恵みによって建て上げて行かれたように、私たちの内に神様は私たちに都合のいい便利な何かだけを注ぎたいのではくあなた自身の内に、器の内に、瓶の中に、壺の中に、神様の愛を、養いを、恵みを注ぎ続けたいと思っておられるのです。

 

でも、私たちはこれを欲して飲まない限りは神様の恵みをどうして受けられるだろう?神様があなたの内にこれだけのことをしている、用意している、計画しているんだ、そのことを信じ信頼しないで、それは私にはいらない、と拒否してどうして神様のご計画がなるだろう。私たちはこのいのちの油を、神様の養いの中から飲みに行かなければいけない。これを取りに行かなければ行けないのです。この時、神様の御心があなたの内に現され、神様があなたを養い続け、建て上げて下さるのです。

 

本来私たちはアハブのように、この恵みに与る資格などなかった。勝手に飢饉で苦しんでろ、そういわれても仕方なかった。私たちはこのいのちが、恵みが、神様の養いが閉ざされていた。でも、神様は、その蛇口を開いてくださった。罪で苦しみ、暗闇の中にいる、神様を知らず、また勝手に離れ、心も霊も飢饉状態となっている私たち、滅びゆくしかないこの私たちを見捨てられず、神様は、私たちにいのちの泉を湧き起こらせる決断をされた。この死に行くしかない私たちの罪の身代わりに御子イエス様を十字架に架けられ死なせてくださった。私たちの罪の身代わりに、その刑罰を身代りに背負わせ。そしてこのいのちをもって、神様と私たちの断絶された関係を修復され、和解させてくださった。

 

私たちがこの救いを求め、悔い改め立ち返る時、私たちの内に神様の愛が溢れかえる、何の罪もない、しかも神の御子イエス様を十字架に身代りに死なせてまであなたに愛を注ごうと思われた、そのご計画が溢れかえるのです。イエス様があなたの内に住まわれる事であなたの内に。これは、再び雨が降る日、私たちが死して後天に行く日か、再臨の時か、その時まで続きます。ただ出すだけではなく、養い続けあなたの生涯を建て上げて下さるのです。

 

もう私たちは自分が望むのはこれではない、と神様との関係を遮断することをやめ、この神様のうちからいのちをいただこう。この救いを受け取ろう。十字架からあふれ流れる泉があなたの内に湧き上がり、養い続ける。私たちは日々、祈りの中、御言葉の中、あらゆる時において神様からこのいのちの泉をいただきに行こう。

 

この水は、あなたを死から命に移し替え、闇を光に、絶望を喜びに、枯渇したところには雨を注ぎ潤される。恐れず、この和解され神様の子とされた喜びを持って神様に大胆に近づき命を日々いただきながら主と共に歩もうではありませんか。