ー回復の約束ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。民を集め、集会を召集せよ。老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。…地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。野の獣たちよ。恐れるな。荒野の牧草はもえ出る。木はその実をみのらせ、いちじくの木と、ぶどうの木とは豊かにみのる。シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、主の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。あなたがたは、イスラエルの真ん中にわたしがいることを知り、わたしがあなたがたの神、主であり、ほかにはないことを知る。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」

ヨエル書215-27

 

神様は、私たちが神様の恵みによって生きる、神様とともに歩むことを何より願っている。その対象は老若男女問わず。その愛は十字架上で示された。これによって私たちは命を得る。

 

さて、↑の箇所は預言者という神様から言葉をあずかりそれをそのまま民に伝える役割を持つ人、その一人のヨエルを通して神様が語られた言葉の一部です。何か↑の話を読むと神様、寛容、優しい!そう思いたいところ。まさにそのとおりなのですが、実はこの箇所の直前まで、身勝手に行き、神様を神様ともせず道具、自分の役に立つ「召使」程度にしか考えていない民に対して裁きの宣告をずっと語ってきていた、その後、神様が上のように約束されたのでした。

 

神様は、愛であり義である神様。義であり愛である神様だから、罪をそのまま放置することはできない。でも同時に罰するだけで撃ち滅ぼして終わり、とできる神様でもない。なぜなら神様は私たちを造られた方。感情もある方。大切な子が滅び行くことなど我慢できない。だから、裁きと同時に回復の約束をされることによって、ここに帰れ、これに生きよ、これだけわたしは愛し、またここに命があるんだから、そう訴えたわけです。

 

余談が長くなりましたが、神様が語られた対象は本当に幅広い。誰か特定の人だけではありません。老人たちも、幼子、乳飲み子、また結婚したばかりの旦那さんも奥さんも、みんな。誰でも主の前に近づく時に憐れみを受けるのです。↑の約束を神様は誰しもに注ぎたいのです。まあもちろんこの後はもっと有名な箇所があるのですが、それはまた別な機会に。

 

では、どんな約束か。「地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなる事をされたからだ」。もう恐れることはない、これは非常に力強い約束ですね。もうあなたは父なる神様の御もとに帰って来たら恐れることはない、と。そしてそれだけではなく、楽しみ、喜べ、というのです。

 

思えば、何か悪い事をして帰ってくるとき、怒られるんじゃないか、と恐れるものです。私も子どもの頃、悪さをして外に出され、家に呼び戻された時、父の雷ないし、何か怒られるか罰があるか、と思いました。放蕩息子も、父の財産を食いつくして帰ってきたはいいけど、家に帰ったらどんな恐ろしい罰が待っているのかと思いながら悔い改め、家に帰って行きました。しかしそこにあったのは大歓迎と、大宴会だったのです。

 

実際のところどうだったのでしょう。神様は、「地」に、また「野の獣たちに」、そして「シオンの子ら」つまり人間たちに向けて、回復の約束をされています。「主は大いなる事をされた」、「荒野の牧草はもえ出、木はその実を実らせ、イチジクの木とぶどうの木とは豊かに実る」、「秋の雨を賜り、大雨を降らせ、前ようによう、秋の雨と春の雨とを降らせる」と。みなさん、イメージ湧きますか?荒野に牧草がもえでるほどになるなんて。言うならば、これは生命の豊かな恵みの回復と、満ち足りて行く喜びの姿、神様に立ち返った者の回復の姿なのです。

 

さらには、地の豊作の回復、完全な状態に神様は償われ戻される。また私たちが、神様が不思議な事をしてくださったことのゆえに神様を賛美するようになるほどの回復し、私たちが永遠に恥を見ることがないようにされる、と。それはあなたの受けた傷の回復、もしくは神様の愛がその傷を十字架の愛によって覆い、喜びに満たし、また神様の家族とされもはやあなたを傷つけることさえできない。大きな回復です。いや、何より裁きの宣告をイエス様の十字架によって癒される。

 

しかしどうして神様はそこまでされる必要があるのでしょう?普通の親でしたら、自分勝手好き勝手外に出て行ってそこで何をしたか全部損失を補填するなんて。ふと私の両親の事を思い出したのですが、さんざん暴力をふるっていた兄が借金した時に、自分の地位を投げ出しても彼を守った父、また自らが借金を代わりに負い仕事を増やした母を思い出します。そして兄たちの恥を晒さないためにその事実を隠し続けていました。それでも両親にとっては私の兄は愛する子どもだったのです。両親にとっては子どもはどこまで行っても大事な子ども。できる事なら、子どもが傷ついたままでいることを望まないし、恥さらしになってほしくない。

 

そうなると、私たちを愛を持って丹精をこめてお造りくださった父なる神様ならなおさらのこと、たったひとりの御子イエス様を惜しまず捧げ、私たちの罪の恥をぬぐい去り、十字架で葬り去るべく、架けられた、それほどまでに愛する私たちが、傷ついたままでいることを、悲しみや闇の中を歩んでいる事を、滅びに向かうことを決して望まれないのです。私たちが恥を見ることを望まれないのです。だから、まずあらかじめ語られ、そしてその約束をイエス様を十字架にかけることによってなされた。

 

神様は私たちに回復を与えます。神様との関係の回復が起こることによって。私たちが悔い改め、神様に立ち返ることによって。そうして神様は、他のどこにいるのでもない、私たちの真ん中に神様がいてくださり住まわれ、回復がなされ、神様の偉大さを知り、物質的状況の転換だけにとどまらずに、奇跡をもたらす神様の力の偉大さを私たちに具体的に知らせ、神様が神様である事を知らせ、神様を賛美する、神様に本当に心から信頼をするように、神様「が」私たちを導くのです。

 

神様は見えない神様ではありません。私たちの真ん中に立たれる神様です。真ん中にあなたの身代わりとして架けられた、あの十字架を立てられ、神様が誰なのか、教えてくださっているのです。あなたはどれだけこの神様に信頼しているでしょうか?イエス様の十字架の血潮を持って私たちを神様の子どもとしてくださった、恥をぬぐい去り、受け入れてくださった、この神様がなすわざ、また導きに信頼しようではありませんか。