「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。『あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。』イエスは答えられた。『「人はパンだけで生きるのではない」と書いてある。』」
ルカによる福音書4章1-4節
私たちは神様ならこれをしてくれるはず、しなければ神様ではない、なんて思ってしまうことがある。神様には確かにそれをすることは出来るかもしれない。でも神様は私たちにもっと良い物を与えたい、それを忘れてはいけない。
さて、↑のできごとは、神の御子たるイエス様が人となってお生まれになって(と言ってもイエス様はそもそも天地の造られる前から存在はされていたのですが、人となって来られた、という意味で)公に活動を始められると、まずサタンの誘惑を受けました。そんな中であった3つの誘惑の一つが↑。といっても、マタイの方はすでに取り扱わせていただいたのですが、また導かれるところがあったので。
40日40夜イエス様は荒野で過ごされていると空腹を覚えました。そこで、サタンはこう訴えるのです。あなたが本当に神の子なら、その石をパンに変えればいいじゃないか、と。
この話を思い起こしている時に、以前カラオケでWe are the world をうたった時に、クリスチャンの友人から、歌詞に神様は石をパンに変えられた、と歌詞にあるけど、変えてないでしょ、とツッコミが入ったのを思い出しました。神様はほら、石をパンに変えたんだから、それであなたへの愛が分かるでしょ、ってそんなこと書いてあるかい?って。
私たちはとかくこの罠にはまる。神様なんだからこれを私にしてくれて当然。それをしてくれないなら、あなたは神でもなんでもない、そう考えてしまいやすい。本当に私を愛しているならどうして私の思う通のものを与えないの?思う通のタイミングで思う通の結果を与えないのか?と。
もちろんイエス様は、変えようと思えば、それこそその曲の歌詞のように変える事はできるんです。できたんです。でもしなかったんです。ここでイエス様はこう答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある」と。
確かにね、私たちが生きるには物は必要なんです。イエス様も、「だけで」とおっしゃるように、パンも必要です。だから神様は私たちの必要を与えて下さります。でも、私たちは自分の望むものだけによっては決して生きることなどできないのです。私たちは自分の必要な物だけを神様に求め、それに応えなければ神様はいないんだ、愛していないんだ、と不平を漏らす事がありますが、そうではない。神様は与える事はできるけど、私たちに本当に必要なものを備えて下さるのです。
イエス様はマタイの福音書の方ではこのようにここではもっと詳しく答えています。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」、神様の口から出る一つ一つのことばによって生きるのです。神様は、神様の御心を神様は命じ、私たちの内に成し遂げることができます。天地創造の際にも、一言命令すれば闇から光が引き出され、光があったように。
人は自分の欲する物を求め、神様がくださるものよりそっちが良いと、神様のくださっているすべての良きものを離れ、神様との関係よりも、自分が神になって好き勝手に生きることを選びます。アダムとエヴァもそうだった、そしてエデンの園を離れた。彼らは神様の愛を疑った。
でも神様の愛は、物を与えるだけの愛ではない。もちろん与える事はできる。それもされます。もちろん私たちの必要を全てご存知で、養ってくださいます。が、それだけの関係?違う。神様は私たちの幸せを何よりも願っている。私たちが神様の子として本来受けるべき天からのすべての祝福を失ったままでいる事を良しとできなかった。
だから、私たちが罪の奴隷となって神様から離れて命を失うことがないように、滅びる事がないように、御子イエス様という最大のプレゼント、いのちのパンをくださった。私たちが滅びゆくことを我慢できず、私たちに罪の赦しと永遠のいのちをもたらすために。御子イエス様を私たちの罪の身代わりに差し出された。十字架に身代りに張り付けられ、死なせられた。神様の口から出る愛は偽りがない。だから、その愛を実行に移されたのです。私たちがこの愛を、救いを、イエス様を救い主として受け入れる時、私たちはこのいのちを得るのです。神様との和解をいただくのです。
この偽り無き愛を実行に移された、御子イエス様の十字架によって結ばれたこの関係において神様は私たちを本当の意味で生かし養い続けて下さるのです。あなたのために命さえ惜しまず投げ出されたお方があなたの内に住まわれ、その愛を、御心をあなたの内に現し生かされていくのです。世の終わりまで、あなたと共におられ、養い、導かれるのです。
私たちは神様に今日、何を求めるだろうか?私たちの望むことを遙かに超えた神様の御心があなたの内になる事を祈り求めようではありませんか。私たちが願うよりはるかに超えた神様のご計画が、御心があなたの内になる、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えられる方の愛があなたの内に日々現される、これ以上何を求めるだろう。この神様によって私たちは造り変えられ、整えられ、生かされていく。今日、私たちはこのいのちのパンをいただき、神様の御心が私たちの内に、あなたの内になる事を祈り求めようではありませんか。