ー切なる願いー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。」

哀歌519-22

 

神様は私たちを決して見捨てようとされるわけではない。神様は私たちが帰る事を待っておられるのです。あなたを造られた神様はあなたをいのちで溢れさせたいと今日も。

 

さて、↑の祈りは紀元前のエレミヤという人の祈りです。彼は今本当に絶望状況の中にありました。神様に愛されたイスラエルが、神様の導きの中で繁栄してきたイスラエルが崩壊した。北イスラエルはアッシリヤによって、南ユダはバビロン帝国によって捕囚された。そうして荒廃となったイスラエルを見て嘆き悲しみ、この哀歌という歌を詠んだ。いや、祈りを主の前に捧げた。その一部、というよりも最後のことばが↑のもの。

 

私たちはこの祈り、何となくわかるのではないでしょうか。これ、本当に心の内を覗けばこんな思いを持っている。神様に見捨てられたかのように思うような時がある。どうしてこんな状況になるんだろう?と思う事もある。これ、本当に私たちの弱さ。

 

でも、弱くていいんです。むしろだからこそ私たちは神様に祈るのです。良いんです、祈って。祈ってはいけない、というなら私たちはとっくの昔に滅び失せている。それこそエレミヤの↑の「なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか」という祈りの通り。

 

イスラエルの民は神様から散々離れていた。何度も神様は彼らに憐みを示され、悔い改めの機会、救いの機会を示されていた。しかし、神などいなくても私たちは生きていける、とか、自分の思う通にならない神などいらない、と捨て続けていた。だから、神様に見捨てられてもおかしくはなかった。

 

でも、神様は見捨てられていなかったんです。こんな祈り、誰が聴くか、と人なら思うでしょう。でも神様は彼らをなお愛し、捨てきることができなきなかった。確かに国は亡びた。しかし彼らは捕囚地にあって生きた。ただ生きただけではない、神様はその連れて行かれた捕囚地の中にあってもその御手を伸ばされ、預言者たちを通して希望を語り、また捕囚期の国の上層部にイスラエルの民を据え、民を守ったりもした。何より、70年後に必ず、あなたがたを連れ帰る、と約束してくださった、その約束を取り下げなかったのです。

 

エレミヤもこの哀歌の別なところで「私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む」と告白します。神様の恵みは決して尽きない、朝毎に、それは降り注いでいる、だからこそ、待ち望むんだ、と告白しました。彼は絶望下にあってなお神様を見上げより頼んだのです。

 

私たちは神様などいなくても生きていける、と考える。でも私たちは神様から離れては決して生きることなどできない。それは良く冷静に考えれば恐らくわかるはず。私たちが頼りにする偽りの神々も、思想も決してあなたを生かす事はできない。もちろん一時的にあなたを支えることができても、それは生きた者でもなければ、あなたに感情を向ける事も出来ないから、あなたに応える事などできない。どんなに祈っても、あなたには答えず、あなたの望むものを自分で取出し元気が出た感じがするだけで、あなたの魂は決して満たされない。

 

しかし、あなたを造られた真の神様は、今日も生きて「はたらき続けている」、偶像のように拝みに来られ、人の出て運ばれ、掃除しなければどうにもならない死んだ物ではなく、「今日も生きて働き続ける」まことの神様は感情を持っておられる。あなたを愛する神様はあなたをいつまでも捨て置くことができない。あなたが悔い改め返りたい、救いを求めるのにどうして神様は応えないだろうか?

 

神様は、私たちが本当のいのちを、救いを得るために、↑の祈りの究極の答えとして、御子イエス様を私たちに与えられた。いやそれだけではない、私たちが受けるべき神様怒りを、裁きを、神の御子たるひとり子イエスキリスト様にその矛先をぶつけ、身代わりに十字架に架けるというあり得ないことをなさった。あなたを裁く代わりに御子イエス様を身代りに裁き死なせた。そこまでしてでもあなたを取り戻したかった、買い戻したかった。私たちが神様の恵みを知らず離れ、枯れて行くのを見てられず、あなたを取り戻すために。

 

あなたのために、「〇〇を帰らせてください」とイエス様は私たちの代わりに父なる神様に祈られた。その十字架で究極の祈りを。父よ彼らをお赦しください、彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです、と自分たちが神様から離れている事を知らずに苦しみ悩む私たちのために。祈る対象を知らず、その恵みと罪の現実を知らずに苦しむ私たちのために。

 

そこまでされた方があなたに今日もその御目を向けられている。あなたが帰るのを待っている。あなたの日を、昔のように、神様が本来計画しておられた、あなたに注ぎたいと思っていたその愛によって、御心によって取り戻してくださるのです。新しくしてくださるのです。御子イエス様を救い主として信じ受け入れるその瞬間、あなたはもう神様の子。裁きは取り除かれ、神様と和解が果たされる。御子イエス様の十字架ゆえにあなたは赦され、あなたの内に復活のイエス様が住まわれ、あなたは回復されていく、イエス様があなたの内にその御心を、ご自身を現してくださるのです。

 

私たちは今日、「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください」御心を現してください、御子イエス様の血潮により作り変えてください、と祈ろう。その時からあなたは新しくされる。御子イエス様を十字架に架けるほどの愛があなたの内に現され、神様の子とされるから。