ー隠し立てる必要はないー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された、ということがダビデ王に知らされた。そこでダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。主の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。…ダビデが自分の家族を祝福するために戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。『イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。』ダビデはミカルに言った。『あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。』サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった。」

Ⅱサムエル記612-23

 

私たちは神様の前に自分を偽る必要はない。何かで着飾らせる必要もない。神様が、私たちに義の衣を着させてくださり、神様の子としてくださったのだから。私たちは力の限り神様の与えて下さったこのいのちを生きよう。神様に信頼して。

 

さて、↑の出来事は紀元前の話になりますが、イスラエル王国が建国され、初代サウル王がペリシテに打ち倒され、次にダビデが王位についた時の出来事。彼はイスラエルをこれまで苦しめてきたペリシテを打ち破った時、彼はこの国の中心は神様である、と考えた。王は神様である、と。私が治めるのではない、神様が治めて下さるからこそこの国は、私は祝福される、そう考えたのです。

 

そこで、彼は神様がともにおられるという証でもある、契約の箱を国の中心に運びます(一度は諸事情で失敗。その話はいずれ)。その契約の箱というのは、神様が彼らと共に住まう証でもあり、その中には神様のことばが書かれた十戒の板(彼らが幸せであるためにと神様が教えたことと約束)、荒野の40年の旅路で毎日欠かさず天からマナという食べ物を降らし養ってくださっていたものを入れた壺、それに死から命に移すしるしを神様が示された杖が入っていた。また、その所から、神様が常に語る、と。それを国の中心に運び込むという事は、神様の御ことばが、神様のご自身が必ず養い、導かれ、守られる、その確信に立っていたのです。

 

と、話が説明的になりましたが、そういうわけでダビデはその契約の箱を国の中心に運んでいきました。この時ダビデは、あまりの喜びに喜び踊らずにはいられなかった。感謝のいけにえを捧げずにはいられなかった。進むごとに彼はその喜びを現し続けたのでした。

 

普通なら王となったら自分を誇るでしょう。しかしダビデは誰を誇ったか?何を誇ったか?神様を誇った。何を喜んだのか?蔑むミカル(前王の娘でダビデの王の妻の一人・一人と言わなければいけないのが悲しいところですが)のことばに対するダビデの答えを見れば明白でしょう。彼は「私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた」、今の彼は「神様が」立てられたから存在する。

 

これまで何度も殺されそうになり、前王にいのちさえ狙われ…本当に自分の力だけではどうして今の状態にあれるだろう、しかし神様が今、私をとらえ、生かしてくださって、神様の御心を彼の内に成そうとしているんだ、それ以上の喜びはない。これから神様がこの国に、彼を通して何をなさろうとするのか、それに胸が躍って、踊らざるを得ないほど、感謝のいけにえを献げずにはいられないほどに彼はなったのでした

 

彼は裸になって踊ったとありますが、彼を着飾らせるのは、王服でもない。私たちを着飾らせるのはプライドや経験、知識でもなんでもない。もしくは何かの思想や宗教、宗教家でもなんでもない。神様の愛が、御心が、十字架の血潮が私たちを覆う時、本当の私たちとなる。神様の御心が私たちを着飾らせる。義の衣が私たちを覆うのです。

 

私たちはそう、何もない裸のような者。本来は神様に見捨てられ、死にゆく者だった。でもあのアダムたちにも直後に裸を覆う衣を与えたように、私たちにも神様はその罪を覆うため、私たちの罪を身代りに背負わせ罰するために、御子イエス様を十字架上で裂き、死なせた。また3日目によみがえらせることによって、御子イエス様を救い主として信じ受け入れる人には、ダビデのような王位ではないですが、神の子とされる特権が与えられるのです。十字架によるその愛が、そこまでしてまでも買い戻されてまでも取り戻されたその御心が、あなたを覆う。あなたの内に契約の箱の代わりにイエス様が住まわれるのです。

 

その神様の御心が現されていくことを、そんなことをしてどうするんだ?もっと現実を見なさいよ、と(分かりやすく言うとそんな内容のことを言っている)いうミカルは残念ながら神様の祝福を失いました。現実で、ありのままでいいという思いによって、世の価値観によって着飾ろうとしても私たちは何もならない。

 

あなたは神様を蔑む、神様の御心に期待しないものになりますか?それとも神様の御心を、救いを、愛を喜び歩む者として生きますか?

 

私たちは神様の御心によって私たちが覆われる事を、神様の御心がなる事を願おうではありませんか。それを大いに期待し喜び待ち望もうではありませんか。あなたを建て上げるのは不確定なものではない、あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与える神様の愛です。私たちは神様の前に自分を偽る必要はないのです。何かで着飾らせる必要もない。神様が、私たちに義の衣を着させてくださり、神様の子としてくださったのだから。私たちは力の限り神様の与えて下さったこのいのちを生きようではありませんか。