ーためらわない関係ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。『あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。また、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。』」

出エジプト記1221-25

 

神様はあなたを愛する事をためらわなかった。いや今でもあなたを愛している。私たちはこの神様を愛する事をためらわず歩みたい。

 

さて、↑の出来事は、かつてイスラエルの民がエジプトに奴隷として囚われ(といってもかつてイスラエルの民の一人が神様より遣わされ、彼は神様に導きによって奴隷からやがて総理大臣となり、エジプトを含む大飢饉から救い出すという功績もあったのですが)、長年ファラオに苦しめられていた、そんな中、神様がモーセというリーダーを建て、彼をとして救い出そうとする、まさにその日の出来事です。

 

神様は、何だかんだでエジプトにも悔い改めの機会は示されていたのですが、ファラオはその救いの機会を拒否し続け、ついに裁きの日を迎えていたのでした。そこで、これから裁きが行われる中で、小羊の血を取り、自分の家の門柱にそれを塗るように、と命じます。その門柱に血が塗られている家は通り過ぎ、その裁きは起らない、と神様は約束されました。もう、裁きはその小羊の血によって支払い済みだから、と。

 

この時神様はモーセを通してこのようにおっしゃられた。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい」と。これを見るとなんか無理やりだな~自由があってもいいのでは?と思う方もいるかもしれない。うん、自由です。ある意味で。私たちは自分で取る、という選択をするもしないも最後は私たちの決断なのですから。神様は別に首根っこひっつかまえて従わせようとはしない。最後選びとるのは私たちなんです。

 

と話は少しそれましたが、神様は先にいのちの約束をされます。救い。あなたを救い出し、神様がかつて先祖たちに誓われた地に導き昇る、乳と蜜の流れる地(肥沃な土地であり、同時に神様の祝福が流れる場所)に導き昇る、あなたはそれを望かい?と問うのです。

 

神様は、私たちにいつも惜しむことなく善を用意される。私たちにとっての最善を。でも残念ながら私たちはこれを得ようとしない。神様はせっかく良い物を私たちに備えようとするのに、自由がない、とか自分の好きに選ばせろ、と言って神様が用意する最善を拒む。でも私たちは自分で自分を造ったわけでも自力で生まれてきたわけでもない。神様が私たちにいのちを備え、造られた。私たちは神様から離れては生きてなどいけないのです。どんなに神様以上のものを捜し求めようとそれは見出す事はできない。だって、すべては神様が造られたのに、どうして造られた物が造り主以上に優れる事などできるだろうか?

 

神様はいつも最善を私たちに備える。だからこの時も、先に約束が示された。何か問題が起こるとすぐに神様に不平不満を言い、自分の思う通にしようとする彼らを見捨てる事がそれでもできなかった。大切な子だから。だから「ためらうことなく」まず救い出す決断をされたのです。そして彼らが神様に立ち返ることを願われたのです。「家族のために」とありますが、私たちという愛する子、家族のために、神様はまず愛する決断をためらう事なくされたのです。だから、ためらうことなくこの救いを受け取ってほしい、と訴えたのです。

 

それは昔だけではなく今も変わりません。私たちのようなすぐに神様を捨て、操り人形のようにし、あまつさえ神様を否定しある意味で殺すような私たちのために、神様は惜しむことなくまず、ご自分の小羊・御子イエスキリスト様を十字架上で屠られたのです。ためらうことなく。私たちを捨てる事よりも、御子イエス様を屠ることを選ばれた。私たちの血を流し裁かれるよりも、御子イエス様にその罪を背負わせ裁きとしての血を流させる、屠ることを選ばれたのです。

 

それ程に神様の私たちへの愛はためらいがないのです。私たちは神様の愛を、御心を、なされようとしている事を疑う。でも神様はご自分の御子を与える事を惜しまない。ためらわない。あなたが滅びゆく事が我慢できないから。あなたが生きるためなら、と。あなたという家族・愛する子のために、ためらうことなく、最も大切な御子イエス様を屠ることを選ばれた。神様のこの愛をあなたは信じられるだろうか?

 

このイエス様のいのちはただで私たちに与えられた。あとは私たちがためらうことなくこれを食べる・信じ受け入れる、イエス様を自分の罪の身代わりとして屠られた、死んで葬られ、また3日目によみがえられた救い主として信じ受け入れる、これだけ。私たちはこれをためらわず、受け取ろう。神様はもうあなたが奴隷の地、罪の中にいる事が我慢できない、神様の祝福、約束の地、神様の子として新しくあなたをしたい、あなたの内に乳と蜜、豊かな祝福を注ぎたいのです。

 

私たちはためらうことなくこのいのちを受けようではありませんか。そして、この儀式、もとい、イエス様があなたの内に住まい、あなたの内にご自身を現される、この新しいいのちの内を歩み、信頼し歩み続けようではありませんか。このイエス様のいのちの内に歩み続けよう。神様はあなたにためらうことなくその愛を惜しみなく注がれるから。そのとき、あなたの家族やあなたのまわりにもあなたを通してイエス様の栄光が現される、死をいのちに変える事の出来るお方があなたの内に働かれると、どれほどのことが起こるか想像できるだろうか?今日、私たちはためらうことなく、この救いを受け取ろう、いのちを受け取ろう。ここからあなたの新しい生涯が、イエス様を通して始まる。