ー強がる必要はない。神様が強くされるからー(9月6日未明の北海道大震災で被災をして30) | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

96日未明の北海道大震災で被災をして30

「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」

ピリピ人への手紙411-13

 

今日で9月6日未明に北海道で起きた地震、全道規模に及ぶライフラインの断絶とブラックアウトから1か月が経ちました。もう一か月、本当にこの一か月は大変でした。私の周りでもこの震災影響で亡くなられた方も何人かいますし、震源地ではそれ以上の苦しみがあったでしょう。家族を失い、家を失い、仕事を失い、そんな話を色々聞きました。私の住む地域でも、未だに諸事情で電気を節電し、街の明かりが何かなくて暗いな、復興復興と急ごうとするけど、回復・復興というのはそれだけ簡単な事ではないんだな、と思わされます。

 

そんな中で今回本当に思わされたのは、結局のところ、私たちにはイエス様が必要なんだ、ということなんです。いきなり話が飛んで申し訳ないのですが、今回被災して、改めて思わされました。光源がなければひからないように、私たちが元気になるにはやはり元気の源となる何か、誰かを必要とします。しかも、それは一時ではなく継続的に。おそらく被災経験がある方は分かると思いますが、一時的なボランティアは助けになりますが、同時にそれが継続していかなければどうしようもないですよね。

 

まさにそれができるのは、イエス様のほかいない。私はそう思います。イエス様が建て上げてくださるからこそ、私たちは本当に元気になる。満ち足りる。癒される。強くされる。

 

まあそれを思い出させるために、神様が↑の箇所を思い起こさせてくださったんですよね。↑の手紙を書いたパウロさんという人は本当に多くの境遇の中を通ってきました。↑に書いてある通り。彼は有名な宗教家の弟子。将来有望だった。そして神と名乗るイエスを赦せず、迫害する。彼の弟子たちを、信徒たちを徹底的に。でもある時復活のイエス様と出会って、イエスさまこそれ彼の求めていた救い主、自分のいかんともしがたい罪の問題を全て解決してくださるイエス様知り、彼は悔い改めた。彼は宗教に一生懸命になり努力して、強がって、神様を信じているつもりがいらない、としていた。でもその彼が変えられたのでした。

 

その後は今度は立場が一転。それこそ彼もまた迫害を受け、理不尽な目にも何度も会い、殺されそうにもなった。↑にあるように、時には、「貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも」あった。

 

それでも彼は満ち足りていた、というのです。信じられますか?彼はキリストを信じていなかった頃よりも、今キリスト共に生きる、イエス様と共に生きている今の方が満ち足りている、というのです。別に強がりで言っているのではない。迫害する彼をもイエス様は憐れまれて、彼を悔い改めに導き、裁くどころか、罪を赦され神様の子とされた。その御子イエス様のいのちによって新しくされた人生、これ以上の喜びはなかった。なぜ?彼の内にイエス様が住まわれ、働かれていたからです。

 

私たちは自分で一生懸命生きようとして、強くあろうとする。神様などいらない、神様なんかいなくたって別に私は大丈夫、と言って。まあでも結局は自分を満ちたらせる思想や何かを求め彷徨うんですけどね。でもそれらは私たちをいつまでも養う事も出来なければ満たす事などできない。保障する事などできないのです。本当に私たちを保証することができるのは神様のほかにはいません。

 

神様は、私たちを造られた。そして造りっぱなしで無責任に手放しなどしなかった。こんなすぐに神様から離れ捨てる罪深い私たちなど見捨てられてもおかしくない。でも神様は造られた者としての責任、いや私たちへの愛ゆえに見捨てる事などできない。我が子として本来すべての良きもので満たしたいと思っていた。それこそ神様ご自身が貧しさを豊かに、満ちたらせようとされていたのです。ただ私たちが勝手に離れて行ってしまっただけで。そうして私たちは本来神様が与えようとしておられた姿を失ってしまい死に向かって行った。

 

でも、その愛ゆえに見捨てられない神様は、私たちが本来支払わなければならない罪の代償、死を、事もあろうに御子イエス様に背負わせた。そして身代りに十字架に架かられ死なれる事によって、古い罪人の私たちを打ち砕いてくださったのです。神様の本来与えようとしていた富から離れ、貧しく、悲しみの内に、罪の中に閉じ込められていた私たちを取り戻すために。私たちを見捨てる道よりもイエス様を見捨てる事を選ばれた。そして死なせた。でも同時に3日目によみがえらせることによって、和解の道を示されたのです。

 

そうして私たちは罪の奴隷、自分の強がりで塗り固められた偽りの私たちの姿、神様の富を、命を失ってしまった私たちを造り変え、新しく生まれ変わらせ、神様の子とされた。これが御子イエス様のいのちという代価を支払われたことによって神様のもの・子とされた。その御子イエス様の血潮ゆえに、私たちは神様のものとされた、保障されたのです。この内に復活のイエス様が住まわれ、あなたの内にそれほどの愛を支払ってでも愛されたその愛を、御心を、あなたの内に現される。新しく造り変えて下さる。だから私たちは満ち足りる、強くあれる、どんなこともできるのです。

 

私たちが強がる必要はない。私たちを富ませ豊かにし、満ちたらせ、強くしてくださるのは私たちではなく、神の御子イエス様の十字架によるのです。この神様との和解がなされて初めて、私たちは神様の本来願っておられるあなた、私、私たちとなることができるのです。このイエス様が保証してくださるから、私たちは満ち足りるのです。

 

この御子イエス様の十字架の血潮に負われた時、何者もあなたを押し倒す事も押し流す事も出来ない。私たちがイエス様の土台の上に立つ、いや建て上げて「いただく」なら、この関係を打ち壊すことができる者は何者もない。あなたを打ち砕く物はなにもない。死もサタンもこの十字架の前に逃げ去るしかなくなるのです。主があなたを保証されているから。

 

私たちは今日、神様などいなくても大丈夫、と強がるのを辞めよう。いいんです、弱さを認めて。むしろあなたのいる所どこにおいても主を認めましょう。その時、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれ」、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」。御子イエス様の十字架の血潮ゆえに。主があなたを建て上げて下さる。このいのちを今日、得ようではありませんか。そして神様と共に歩みましょう。あなたを世の終わりまでその十字架ゆえにいつまでもあなたと共におられること喜び期待して。