ー「神様が」なされるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た。神の人は、『この人たちに与えて食べさせなさい』と命じた。彼の召使いは、『これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう』と言った。しかし、エリシャは言った。『この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。「彼らは食べて残すだろう。」』そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べた。主のことばのとおり、それはあり余った。」

Ⅱ列王記442-44

 

神様の働きは昔だけではなく、今もやんではいない。神様の愛は、御手は今もなお伸ばされ続けている。私たちはこの神様がなさる大いなる御業に期待し続けたいものです。

 

さて、↑の話は紀元前のイスラエルの出来事。すでに神様によって建てられた王国は王たちが神様を捨てたことによって分裂し、今やアラムが台頭していた、そんな時代の出来事。神様は彼らイスラエルを愛していた。エジプトからも救い出し、先祖たちに約束された地も与え、王国も一時的と言えども繁栄させてくださった。神様に従っているうちは。

 

そう、私たちは忘れてはいけないのは、私たちを豊かにしてくださるのは、いのち溢れるようにしてくださるのは神様なんです。神様は別にイスラエルだけではない、私たちだって大切な、神様の御手によって造られた大切な存在ですから、ご自身の愛を、恵みを、祝福を注ぎたいんです。ただ、イスラエルは神様を捨ててしまい、その祝福が離れてしまったのです。

 

じゃあ神様は彼らを見捨てていたのか?いえ違う。神様は預言者という、神様のおことばを預かり伝え、また神様の御心を行う人を備え、ご自身の思いを告げ、彼らを待っておられる事、悔い改めて変えるよう訴え続けた。いやそれだけではない、ただ待っているだけではなく具体的に神様はご自身の愛を現してくださっていたのです。その一つの奇跡が↑の出来事。

 

預言者エリシャは大麦パン20個と一袋の新穀だけで100人をもてなすように、と召し使いにいうのですが、そんな100人を満足させるなど無理です、と答えるのです。まあそれはそうですよね。そもそも大麦パン自体がうまくない上に(大とつくわりに)一人1個も当らない。召し使い本人だってむり、というくらいですから、大きさや新穀の量もたかが知れていたのでしょう。そこでエリシャは「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。『彼らは食べて残すだろう。』」と答えたのでした。そして事実、100人の人は我慢してちょっとだけ食べたのではなく、有り余るほど残った、と。

 

そう、これをなさるのは神様がおっしゃるからできるんだ、と。神様が私たちを捨てていないからこそ、今これをなされた。そう、神様がする、とおっしゃられたことはなるのです。神様は私たちを愛する、と言ったら愛するんです。その時に起こることは私たちの想像をはるかに超える。

 

でも、実はこの話はここだけで終わらないのです。ああ、昔はそうだったんだね?でも今は違うんでしょう?あの人たちが特別だったからでしょう?違う。

 

実は後にイエスキリスト様が人となって来られた時、イエス様は2-3万人(当時の人数計算上ふり幅がありますが)の人を5つの同じ大麦パンと2匹の魚だけで満腹にし、何とこともあろうに12個の籠に余った、というのです。

 

この素晴らしさ、分かるでしょうか?神様の愛は変わらないんです。私たちをいのちで満たしたい。私たちの内にそのご自身の御心を現したい、という思いは一切変わっていない、時が経とうが何だろうが、彼らが神様の元に変えるためにその御手を伸ばされ続けていたのです。

 

当時のエリシャの時代であっても、イエス様の時代であってもかなり困難な時代。神様はどこを見ているのだろう?私を見捨てたのだろうか?と思うような絶望下にあった(ちなみにイエス様の時代はローマ帝国にイスラエルは支配されていた)。しかし神様の御手は伸ばされていた。そんな絶望下の中にあっても神様はその愛を現し、具体的な行動を起こされた。神様はその最大の愛の形を具体的に、御子イエス様を人となって生まれさせ、そのイエス様を通してご自身の愛を現すことを決断された。

 

いや、それだけではない、私たちと神様の、罪によって断絶されてしまったこの関係を修復するため、私たちの罪の刑罰を神の御子たるイエス様に負わせ、十字架に架け死なせた。そうしてイエス様がいのちのパンとなって裂かれ死なれたことによって、私たちはそのイエス様というパンを食べることによって、いただくことによって、イエス様を救い主として信じ受け入れることによって、私たちの内に神様の溢れんばかりの愛が、御心が現されるようにされたのです。ローマ帝国とかのレベルではない、罪の底に沈み永遠の裁きの中に進もうとする、見捨てられてもおかしくない私たちをなお見捨てることができず、御子イエス様を十字架に架けられた。

 

あのエリシャの大麦パン20個のレベルではない、神の御子たるイエス様の十字架によるいのちのパンをいただく時、私たちは有り余る神様の愛をこの身に受け、神様の子としてその喜びを満ち溢れさせてくださるのです。イエス様の十字架ゆえに、神様は罪の赦しの宣言と解放、神様の子としてあなたは受け入れて下さる、そう宣言されるのです。

 

神様の愛は、昔だけにとどまらない。ある一時にとどまらず、今も昔もこれからも現され続ける。終わりの時まで。一時の満足だけで終わらない。御子イエス様の十字架によって裂かれた肉、いのちのパンはあなたに永遠のいのちをもたらし、終わることのない喜び、いのちで満ち溢れさせてくださる。今も明日もこれからも。エリシャの時代で終わらずイエス様の時代だけで終わらず、今日も明日も。御国に行くその日まで。

 

今日、私たちは主の十字架の前に帰ろう。そしてこのいのちのパンをいただこうではありませんか。そこから新しいあなたへと変えられていく。イエス様の十字架に現された神様の愛を信じ従い歩もうではありませんか。主は今日もあなたにいのちのパンを与えたいと待っておられる。