「モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。『宿営の中にいくさの声がします。』するとモーセは言った。『それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。』宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。」
出エジプト記32章15-20節
神様は愛の神様。だから怒ることはない、そんなことはない。神様は私たちの罪に陥っているその状況に対し悲しまれ、また罪を憎まれ、神様から引き離すサタンを憎まれる。それは私たちを愛するがゆえに失われる事を悲しみまた、罪を憎むのです。私たちは神様の愛の深さを良く心に刻み続ける必要がある。
さて、↑の出来事はイスラエルの民にとってのあってはならない事件が起こった後のこと。かつてイスラエルの民がエジプトの奴隷として捕らえられ、神様の憐みによって救い出された。そんな中、神様はご自身と民との間に契約を結び、神様の祝福を約束されていた。そんな中で、モーセとさらに神様が具体的な話をしていると、あまりに帰りが遅いので、他の民は神様が見えないから心配、自分の思う時に思う通に行動しない神など神ではない、自分のために行動してくれる、自分の操り人形的神を造ってほしい、と願い出て、リーダーであるモーセの兄アロンはこれを造ってしまったのでした。
そんな話しを聞いたモーセは神様に何とか許していただけないか、と執り成し、神様に促されるまま、急いで山を下りて行く、そこから↑の出来事が始まります。ここで気付かれるかもしれませんが、もし神様が彼らが気に食わないと思って滅ぼすなら、わざわざ降りて行かせない、でも彼らに悔い改めの機会を持って降りさせた、そんな思いも見えますね。
モーセはどんな思いで降りていったのでしょう?願わくは神様の気のせいであってほしい、ないしモーセが降りてきたことで彼らの偶像礼拝の手を止めてくれれば、と思ったか。そして彼は↑にある通り神様手作りの十戒の板、直筆の板という最高の物を携えて降りていくのでした。見てくれ、神様はご自身の手を動かされ私たちを愛し導く方なんだ、あなたは顔もわからない神様など不安だ、と言うが神様ご自身があなたに直接介入されているんだ、愛されているんだ、と。
しかし現実はとても残念なものでした。モーセを待っていたヨシュアも聞いた声、それは戦でもなければ、モーセが山から下りてきた、不安の雲が晴れた喜びの声ではない、偶像崇拝とみだらな行為を行う驚喜の声だったのです。彼にとってどれだけショックだったことでしょう。神様のメッセージを受け取りに行き、帰ってきたらこのざまですから。そしてモーセは神様から頂いたこの板を壊すのでした。
でもモーセ、何もそれを壊すことはないじゃないか、と思いますが、これは象徴的な意味合いを持っていたのです。この石の板には両面に文字が刻まれていたとありますが、それはこの契約が永遠的なものである事を意味する、その恵みを千代にまで及ぼす、尽きる事のない恵みを、愛を注ぐ、その約束のメッセージです。人間が決めたのではない、神様からの約束。
まさにその象徴がこのモーセの行為にあるのです。しかもこの後アロンが言い訳した時、「この民は悪い」と言ったこの悪い、と言う言葉は、邪悪や不正、悪意という意味なのですから、間違って罪を犯したというよりも、こんな自分たちの思うとおりにならず、思うときに思うようにしてくれない神など神様ではない、と悪意を持って拒否したのです。神様はイスラエルの民を、その奴隷時代から、荒野の旅路を含めいっさいを守り導いてきた、その御顔はいつも彼らの方に向いていたのに。その価値ある神様のメッセージ、神様ご自身が作られ、神様ご自身から約束されたメッセージに対して、ですからね。
この石の板が砕かれたという事はその象徴であり、またそんな神様の愛への裏切りへの義憤の現れです。いや、神様の怒りそのものを代行したのです。この怒りが正当だったか?イエス様は神殿の中に罪を犯し続ける事、また礼拝を妨げる商売人に対して怒りを露わにし、台をひっくり返し運び出すようにおっしゃられたように、罪に対してはやはり良しとはできないのです。その神様の怒りはしばらく続きます。この先、今まで神様ご自身が雲の柱・火の柱を持って導いてきたのに、御使いを遣わすから彼についていくように、もうわたしはあなたがたを打ってしまう可能性があるから一緒には行けない、と宣言するほどに。それはある意味で見捨てられたようなものです。何と厳しい言葉。
私たちはこの神様の御怒りをよく覚えておきたいものです。神様は罪を決して喜ばれない。神様から心を背けることを決して喜ばれないのです。でも神様はそのまま捨ておくことはできない、そこでこの律法の板が砕かれたのです。神様の怒りは、この神様ご自身の作られた物が破壊されるか、民が破壊されるかしかない。それでも神様は民を哀れまれ、ご自身の作品が壊れることを由とされたのです。その姿、まさにイエス様ですね。民を裁く代わりにイエス様にいっさいの罪を背負わせたのです。
神様の御思いは、イエス様が神殿粛正を行われた際におっしゃられたように、そのような物をここから運び出す事なのです。私たちは偶像を持てば、霊的な偶像を刻めば、その偶像のようになっていきます。そこにいのちはない、だから価値のない偶像、霊的な偶像を運び出し、価値ある、と言う方も失礼かもしれませんが、神様を私たちのうちにお迎えすること、幕屋を用意しお招きす事を望まれているのです。十字架をあなたの幕屋に据えるように、と。そして偶像を砕き洗い流した水のように、イエス様の十字架の血潮が私たちの罪を洗い聖め、私たちは本来の神様が用意されたまことのいのち、聖霊様の油注がれたものとなるのです。イエス様と似たものへと近づけられていくのです。
パウロという伝道者は、イエス様を信じる信仰によって聖霊様が私たちに書き記し、私たちに力を与える、と言いました。私たちは年齢も性別も、違いますし、人生こうすればうまくいく、なんて理想回答はありません。しかし、あなたのうちに、遣わされた場所に神様の住まい・幕屋を建て、神様をお招きするとき、イスラエルの民のような不安に支配されるのではなく、神様ご自身があなたに知恵を与え、力を与えてくださる。神様ご自身のその御手をもってあなたを造り変えて下さる。神様ご自身がイエス様によって新しくされたあなたの内に働かれ、ご自身の愛を、御心を刻まれ、満ち溢れさせ、導かれるのです。
今日、イエス様にあってあなたの内に建てられている計画、御子イエス様のいのちを惜しまず与えるほどに愛される神様があなたのうちに驚くべき計画を持ち、今日も導かれる。山の上で神様があなたのために建てられた計画、カリバリの丘の十字架であなたのために建てられた計画、これに信頼し歩もう。