「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。―すべて頼みのパン、すべて頼みの水、勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と長老、五十人隊の長と高官、議官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者。わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる。」
イザヤ書3章1-4節
神様は奪い去る神様ではない。神様はほんとうによいものを私たちに与えたい、神様ご自身で私たちを満ち溢れさせたい神様なのです。私たちは神様のうちには何もない、信じたって何になる?と疑うかもしれないが、神様が私たちに備えたいのはそんな世の中にあるレベルではない。私たちはもっと神様に大いに期待しよう。
さて、↑のことばは預言者という、神様のことばを預かり、民に、私たちにそのまま語り伝える人の一人、イザヤという人を通して語られた神様のことばの一部です。
当時語られたイスラエルの民は、前にも書きましたが、軍事施設を造って他国から防衛する体制を整え、農業と牧畜行、これを熱心に推進したり、外国との経済の取引、そして、友好関係、これをしっかり持っていたので一応、生活は豊かになってきて、財産も増え、外国からのぜいたく品も輸入したり富んでいました。しかし、彼らは自分たちを喜ばせる物を神様はくれない、自分の思うおとりにせず与えない神など神ではない、と神様から離れていました。
そんなものですから、本来神様の憐みによって守られていたその国が崩れようとしていた。当時最強と言われていた(バビロン前の時代ですし)アッシリヤ帝国によって危機に瀕していたのでした。↑のことばを見ると、もう神様によって彼らは除かれてしまうのか。こいつらはいう事を聞かない式に食わないから、もう勝手にしろ、滅びろ、そんな宣言でもされたか?違う。
実はこの前の章では神様の御国が完成される、と宣言されたのです。神様の喜びが、愛が、ご支配によっていのち溢れる国の完成。まあ、やがてイエス様の再臨によって完全な御国が完成するのですが。これが神様の願いなのです。
いいですか?親は子供を憎しみをもって誕生を待ち望みます?いえしません。この子のために最高のものを用意しよう、この子のためにできる最大限のことをしようと、考えるでしょう。それなら神様ならなおさらのこと、私たちを造られたとき、どうして悪い物で満たそうと考えるでしょう?以前も書きましたが、天地万物を神様が創造されたとき、「良い」最善のものを備えていたんですよ?適当に造ったのではなく神様ご自身の手で造られ、私たちに必要な全てを整えて下さっていたのです。
しかし、私たちはこれを疑う。人は自分が主役で自分を満たすものによって着飾って行くから。それがどんなものであれ。↑には「頼みのパン、すべて頼みの水、勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と長老、五十人隊の長と高官、議官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者」と書かれていますが、中身が違うだけで似たようなものを私たちは求め、またそれによって満たそうとする。
そう、神様はそうした神様の恵みを妨げ壁を造り、神様とのいのちある交流、それを妨げる物を取り除かれる、というのです。あなたを敵視するゆえに強奪しようとかそういうわけではない、彼ら・あなたを愛するがゆえに、彼ら・あなたが神様からのいのちを失っていくことを、本来受けるべき神様のいのちを、愛を受け取れず死に行く事、滅びに向かっていくことを我慢ならない。
彼らは自分たちの危機を神様が見捨てると思って諸外国を頼ったけど、結局その諸外国が今度はイスラエルを支配し、最後は滅びへと、またモラル崩壊、神様を忘れさせる、神様などいなくても生きて行けるだろう、とまやかしを見せ、神様の素晴らしさ、神様がどれだけ彼らを愛し、その愛を具体的に行動に現し救われたのか、それを忘れさせたのです。
サタンは神様の素晴らしさを疑わせる、私たちに。神様は本当にそんなことを言ったの?と神様のことば、愛、行動を疑わせ、忘れさせ、もっと良い物がある、と私たちをいざなう。これは人類の始め、アダムとエヴァのころから何にも変わらない。
確かに私たちはパンで生きることはできますよ?でも、本当の愛、いのちは、神様の口から出る一つ一つの言葉、いや神様のくださるすべてのものによって、愛によって、その御心によって私たちに注がれるすべてのものによって私たちは生かされるのです。しかし私たちは神様を捨てて、イスラエルの民も、また私たちも惨めな道、最後は滅びへと向かっていく、死へと、永遠の裁きへと向かっていく、本当に惨めな存在。でも神様は見捨てられない。神様は彼らが頼りにしているものを除いて、裁きに向かわせずに、むしろ御国を建て上げる、神様のいのち溢れるものに変える、と約束くださったのです(2章)。
神様は除かれて終わりではない。私たちに与えたい神様なのです。だから、神様と私たちを断絶するのその壁を取り壊し、打ち砕くために、神の御子たるイエス様を人となって生まれさせてくださった。神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えられず、その断絶された壁を乗り越え、来られた。そして、私たちの内にある私たちが頼りにしているすべてのものや苦しめる、まとわりつく重荷や悲しみ、何より罪、死を取り除くために、御子イエス様を私たちの身代わりにそれらすべてのものと一緒に十字架に張り付けられ、罰せられ、葬られ、よみがえられたことによって、これらすべてを打ち砕かれたのです。あなたが神様の御前から取り除かれる代わりに、御子イエス様を十字架上で死に渡される決断をされたのです。
そして、罪の奴隷という衣を脱ぎ捨てさせてくださり、白い頃も、神様の子としての衣を着させてくださる。物理的にというよりも、神様の愛、御心があなたの内に取り囲むように現されるのです。神の御子たるイエス様を身代りに十字架に架けるほどに愛された方、そこまでしてまで取り戻された神様の計画が、愛が、具体的な何かがあなたの内に現されるのです。もう古い罪の中に、悲しみの中に、暗闇の中に閉じ込められたあなたではない、イエス様の十字架によってすでに勝利者とされるのです。私たちはこれをただ受け取るだけなのです。
もう私たちをサタンや偽りの存在もしない偽神に支配させてはいけない。あなたの神様はあなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず身代りに差し出し罰せられるほどに愛される方。どうして今なお疑う必要があるだろうか?今日、神様から与えられている救いの衣を、永遠のいのちをいただこう。そしてこの新しくされた者として神様のいのちの内を歩もう。神様はいつでも御子イエス様ゆえにあなたの内に最高の愛を現してくださる。今日主に信頼し歩もうではありませんか。
「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」今日もイエス様を見上げ、イエス様と共に歩もう。主があなたの内に御国を建て上げて下さる。