ー喜びが満ち溢れさせるためにー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」

ヨハネによる福音書1511-17

 

イエス様は私たちの内に喜びで満ち溢れさせようとされた。いや、今日もしてくださっている。神様は恐れるべき方であると同時に決して遠く離れた関係ではない。いや、自分勝手に遠く離れてしまった私たちのために最も近くまで来られた方なのです。私たちはこの方と共に日々歩もう。この方の愛によって私たちは生きる、喜びに満ち溢れるから。

 

さて、↑の話はイエス様が十字架に架かる直前、告別説教のように語られたこと。イエス様はその長いメッセージ・告別説教の中で、イエス様が十字架にかかるという、どうしたらいいんだ、と不安になる弟子たちに対して、もう一人の助け主として聖霊様を送られると約束され、その聖霊様によって私たちはイエス様とつながり、父なる神様が私たちの生涯に関わり、豊かなイエス様にある生涯を歩ませてくれる、私たちは決して孤児にされないんだ、そう約束されていました。そしてこの直前には、私たちの内にいのちのみを実らせることを語られていました。

 

その続きが↑。イエス様は↑のことばの中で互いに愛する事を語りながらもそのれに挟むように、あなたを友と呼び、その友のために命を捨てる、と約束された。そう、この愛こそ私たちを生かし、満たされるのです。

 

私たちは有名人とかの友だちがいると鼻が高くなるでしょう。ならなおさらの事、神の御子イエス様の友と呼ばれるなんて最高!イエス様はあなたの友です。それで今日の話を終わらせても良いくらいですが、この友の関係はではどのようなものか。

 

それはしもべではなく、友だ、というのです。凄い話ですよね。何かこれをしてくれたら君を友とするよ、ではなくまずイエス様が私たちを友と呼ぶ、というのです。人は何かの条件があってその友と繋がります。人類みな兄弟、皆友達さ、とうたい文句を挙げても、そんなきれいに行くわけがない。値観も違えばいつも親しくあるなどできないし、相手に自分を満たすことを要求するから。しかし神様の御子はしもべとして優秀なら、とかそういうのではなく、まず友と呼ぶ、と宣言された。

 

これは大きな話ですよ?しもべは、主人のために何かしなければなりません。しかもこれと言った見返りもない、強制的です。doing、何をしたかによってのみ存在価値が認められる。行動のみで評価され、場合によってはいのちさえ取られてしまう、それがしもべ。

 

しかし、イエス様はそのような関係をあなたと望んではおられません。イエス様は、「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聴いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」とおっしゃるように、友には主人のすることを知らせる、being、親しい関わりの存在なのです。その友と私たちをイエス様は呼んでくださるのです。ぜひ私たちはイエス様の友!これを心に刻み込んでほしいです。

 

だから、親しい関係を持つために、イエス様は私たちのためにいのちを投げ出し、十字架に架かられました。神の御子として遠く離れた存在で時々助けてくれる友としてではなく、遠い存在ではなく、勝手に神様から遠く離れてしまった私たちのところにまで下って来られ、人と同じ弱さをもって来られた。私たちの重荷を背負ってくださった。私たちを罪のどん底で、裁きの底で、死の底でひとり虎児となって行くことがないよう、その死の底、絶望の中にまで下って来られ、私たちを救い出され、この十字架の愛の絆で結ばれる親しい関係、神様の家族に引き入れようとされたのです。あなたが大切な神様の子であり友だから。

 

それ程私たちを愛してくださるのがイエス様なのです。これ以上大きな愛は確かにありません。その愛を持って、私たちと親しい関係を持ちたいとイエス様は望まれているのです。一枚一枚服を脱ぐように、自分のいのちを与え続けるのです。

 

イエス様はそうして友に、父から聴いたこと、神様の秘密を聖霊様を通して知らせるのです。かつてアブラハムを友と呼び、彼に秘密や計画を話され、彼に希望と喜びを与えたように。そのしるしとして、イエス様の友の特権として、父との関係が十字架によって回復された今、神様の懐、シークレットプレイスに私たちは入る事が赦されるのです。

 

そうするとどうでしょう?そのようなイエス様との友情によって私たちは揺るぎないものとされ、神様の計画、お心を知ることによって、私たちの希望は広げられ、神様への愛はさらに深まり、喜びと平安と確信は、私たちを豊かにするのです。

 

私たちの存在意義は、私たちの中ではなく、イエス様の内にあります。友はもう、首根っこを捕む関係ではありません。友はすべての事を知らされたものであるだけではなく、決して相手を支配することなく、相手の人格を尊重しつつ、自発的な愛の関わりが保たれる関係なのです。この地上では色々な事があります。なんでこんな事が、という事も多くあります。しかしまず、私たちが友なるイエス様に信頼し、繋がり、しっかりと生きる力を養って頂こうではありませんか。

 

イエス様は今日、この十字架の、無条件の愛を受け取ってほしい、と私たちの、あなたの応答を待っています。この愛を受け、イエス様の友となる時、神様の計画、お心を知り、私たちの希望は広げられ、神様への愛はさらに深まり、喜びと平安と確信は、私たちを豊かにされます。だから、イエス様のほうに向いてほしい、と。本当の友情関係を結びたい、と。

 

私たちはこの十字架の愛によって結ばれた関係の中、どう応答するだろうか?友情関係は一方通行では成立しない。あなたが応答するとき、神様の愛が、いのちが溢れ、喜びが満ち溢れる。今日主の前に帰ろう。主は今日も待っておられる。