「その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。『イスラエルの神、主がこう仰せられます。「わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。」』パロは答えた。『主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。』すると彼らは言った。『ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。』エジプトの王は彼らに言った。『モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。』パロはまた言った。『見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。』」
出エジプト記5章1-5節
私たちには本当に素晴らしい神様がいる。どこかにある名前だけの宗教とか、偽神とかとはわけが違う。名前だけのものでもない、リアルに私たちの内に住まわれている。これがどれだけ素晴らしい・凄いことなのか、私たちは日々覚えたい。
さて、↑の話はイスラエルの民がかつてエジプトに捕らえられていた時代の話。かつてイスラエルの神様によってエジプトは救われたにもかかわらず、その神様がどれだけエジプトを憐れまれたのかも忘れてしまった。そんな王朝が起こり、なんと事もあろうに、その大飢饉から救った立役者ともなったイスラエルの民を奴隷としたのでした。
そんな彼らを救うべく神様はモーセという人をリーダーとして立て、彼を通して神様は彼らを救い出そうとされた。ところがモーセも人。その彼に神様はご自分のお名前を示された。あってあり続けるもの、そのわたしが共にいるんだ、と。
モーセはその神様の約束を、いやかつてイスラエルの民を救われた、導き続けてきた神様が過去の存在ではなく、今も共におられ、約束を果たされる、何よりもこれからも共にい続けて下さる神様、その確信をもってパロ(最近の翻訳ではファラオと記されている)の元に行った、その時の出来事が↑の話。
ということで、モーセとアロンはエジプトの王ファラオのところに行き、こう言いました。「イスラエルの神、主・ヤハウェがこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」と。彼らは本物の神様、唯一真の神、ヤハウェ様が、と伝えたのです。他のどこかの偽物の神ではない、エジプトの神ではない、この天地万物、人間を造られたヤハウェ様が申された、と言ったのでした。そこでパロは「ヤハウェとはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私はヤハウェを知らない。イスラエルを行かせはしない」と答えるのでした。
モーセたちが告げたのはヤハウェ様の名前。パロは神そのものとしてエジプトであがめられ、様々な神について知っていましたが、ヤハウェという名前は知らない、そんな名も知らぬ神になぜ従わなければならに、と言っているのです。そこでモーセとアロンは「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです」、と彼らが分からないヤハウェ様の名前ではなく、彼らイスラエル人の信じる真の神様を礼拝しに行きたい、とパロに訴えかけるのです。
このやり取りを見ていると、神様の御名に対してどう考えるのか、どうするのか、という問いかけが見えます。モーセはあのホレブ山で神様と出会い、「わたしはあるというものである」という、昔から存在し、今もこれからもあり続ける神様を知り、そして4章でヤハウェなる神様からいのちの保証を受けた今、この方に従って歩みたい、と願ったのです。神様が、行きなさい、というなら行くのです。神様と共に歩むところにこそ幸せがあると知っているから。
だからパロに何と言われようと、行かせてください、となにが何でも行くんだ、という意思表示をするのです。妥協ではなくパロがわかるように、ヘブル人の信仰する神様、と言い換え、またもし行かなければ剣や疫病で私たちを打つ、と言うのです。剣や疫病で打つ、と神様はモーセには言っていません。しかし、モーセにとってはヤハウェなる神様から離れると言うことは、そのようにして切り離されてしまうほどのこと、ととらえたのです。神様に切り離されたくない、神様と一緒にいたい、そして愛する同胞イスラエルにもその喜びを知ってもらいたい、ただその思いで行動するのでした。
一方でパロは「私はヤハウェなる神など知らん!」と言い、自分の世界に、生活に、政治に神が介入する、しかもよくわからん神が介入するなどあり得ない!というのです。私の神は私、何者もわたしに介入するな、と、拒否するのでした。神様を拒絶したのでした。まあ、この後、そういうファラオに神様が誰なのかを知らせるのが10の災いなのですが。
結果、この後モーセを含むイスラエルの民はさらに過重労働に追い込まれますし大変な目にあいます。しかし、それは私たちだって同じ。しかし神様は10の奇跡(エジプトから見たら災い)を通して彼らを守られ導かれ、出エジプトへと導かれていく。生きた神様を彼らは体験していくのです。このヤハウェ様なる神様を自分たちの神様として受け入れた時。仮に困難な中にあっても神様が共におられ彼らの中にご自身の栄光を現された。
しかし、一方でファラオは10の災いの中で神様ご自身を現されながら、彼らに悔い改めの機会が与えられていく。しかし、最後まで拒否した結果、彼らへの神様のメッセージは彼らを滅びに導き、最後は長子は死に絶え、紅海に沈む事となったのでした。
この出来事は私たちにも問われます。私たちにも神様のお名前が示されていますから。私たちに神様から御子イエス様という最高の救い主が与えられているのですから。その中で神様は私たちに、「あなたは救い主イエス様のお名前を知ってどうしますか?」と問われているのです。どう信じるのか、イエス様を受け止めるのか、と。イエス様は私たちのいのちを贖ってくださった方、買い取ってくださった、極みまで愛された方。すぐに離れ裏切り、ファラオのように自分勝手に生き、神様を切り捨て存在を無視する、殺す、裏切る、そんな私たちのためにさえ、惜しまず身代りに死にまで従うほどまでに愛された方の前に。
私たちはファラオのように私たち人生に介入するのを拒むのではなく、そこまでも愛されたイエス様を我らが主としてお迎えしようではありませんか。このイエス様の福音は私たちをいのちの道に導きます。仮に困難な中にあろうとも、イスラエルの民にとってあの10の災いが神様の奇跡のわざ、神様が彼らとともに戦われていたように、同じように主が共にいながら戦われ、この奴隷、罪の闇からあなたを救い出し、天の御国にまで連れ昇ってくださるから。責任をもって。昔だけとか、どこかの宗教とか本にあるような名前だけのものではない、リアルに生きる神様があなたと共に今もこれからの血も共におられ、私たちがイエス様を主と告白する所に、神様の御恵みが溢れさせてくださるのです。一方で、拒否しているとき、神様はそれでもあなたに手を伸ばされる、しかし最後はそれは10の災い、裁きへと向かっていく。
あなたはどちらを望むだろうか?神様はあなたを支配するためではなく幸せに、神様の恵みの中に、喜びの中に導き出され、共に生きたいと御子イエス様をあなたのために身代わりに十字架に欠けるほどに愛された。あなたは今日、救い主イエス様のお名前の前にどう応答しますか?