ー十分に気をつける愛ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神様、主を愛しなさい。しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来るなら、あなたがたの神、主は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、主があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。」

ヨシュア記2311

 

神様は私たちを愛し、私たちの内側を、魂を、喜びで、いのちで満たしたい。どうして?神様は私たちの幸せを願っているから。それゆえに御子イエス様のいのちさえ惜しまず私たちのために与えられた。今日、私たちは主にあるいのちをいただこう。主は今日も待っておられる。

 

さて、↑のことばは、かつてエジプトの奴隷として囚われていた民が神様の憐みによって救い出され、ついに彼らの先祖たちに誓われた地を勝ち取った時に、当時のリーダーであるヨシュアという人を通して神様が示されたメッセージの一つ。それは、十分に気を付けて、あなたがたの・あなたの神、主を愛するように、ということ。

 

聖書を読んだことがある方は多くの神様のことばを発見するでしょう。~しなければならない、~してはいけない、とか。何か拘束されているようで嫌だな、と思う人もいるでしょう。実はクリスチャンの中でもそこに陥ることもあるのですが。でも、実はそれらは神様が私たちが幸せになるために語られている大事ないのちの道標なんです。その背後には、その先に神様が最高のものを用意してくださっている、という約束があるのです。

 

そのために、これから新しい生活が始まるイスラエルの民に、↑のようにヨシュアは、ヨシュアを通して神様は語られたのです。十分に気を付け、神様を愛するように、と。

 

とはいえ、正直私たちは現実を見ますし、神様をいつも求めることができない、本当に弱い者です。正直な話これを欠いている私自身だって、24時間365日神様を全力で求め愛しきれいているか?と聞かれたら、Noと答える、それくらい弱い。だからこそ、ここで十分に気を付ける必要性を訴えているのです。

 

実は日本語には訳されていないのですが、当時のことばを正確に訳すと、「あなたがたの神様・主を愛するために、あなた方自身の霊を十分な注意を払いなさい・見張りなさい」となります。そう、そのためにまず大事なのは私たち自身の霊がどこを向いているのかを十分注意を払い見張っているように、と。

 

霊というとぴんと来ないかもしれませんが、神様は人を造られた時に特別な霊・「ネフェシュ」を吹き込まれました。そして私たちが本当の意味で生きた者とされた。そう、私たちは神様から生きた者としていただくために多くの恵みを神様から注がれるのです。私たちはこの霊の飢え渇き、それを満たされる事をいつも願い、動き回っています。本当のいのちを、生きた者となるために。そしてこの魂が満たされる時に人は安心感を得るのです。

 

ところが面白い事に、一時の安心では不安になり、いつこの平安が終わるか、喜びが持ち去られるかわからない、と霊が不安になります。もしくはあの時はうまくいったけど、今度はうまくいく保証はどこにあるのだろう?聖書ではこう書いてあるけど、同じようにどうして私に起こるだろうか?と不安にさいなまされ、思い煩いがおこるのです。

 

それを満たすためにある人はドラッグにはまったり、姦淫的なものにとらわれたり。もう少し身近なところを考えるなら、怒り、不満、憤り、どうにもならない思いを正しくない方法で人にぶつけたり。

 

でもそれらは私たちの思い煩いに一時的に答えても決して満たされないし、答えることはできない。ついにはいつまでも答えない、自分の思うときに答えてくれない神など神ではない、と神様を排除するようになる。そうして神様は私たちを愛し、恵み祝福したい、いのち溢れる豊かな交流、関係を持っていたいと私たちの方を向いているのに、見失ってしまうのです。そしてますます思い煩いに陥ってしまうのです。

 

だから、私たちの霊が変な方向に向いていないか、十分に見張りなさい、とヨシュアは勧めるのです。向くべき方向をちゃんと見ているか。あなたの心が別な何かに支配さていないか?あなたの霊的なエジプト時代、痛みや悲しみ、もしくは罪に捕らわれていないか、そうしたものに心を束縛されていないか。本当のいのちの供給源、いのちそのものであるイエス様のところにいのちをいただきに行こう、と。

 

でも忘れないでほしいのは、そんな弱くすぐに神様に逆らい罪を犯すイスラエルの民さえ神様は見捨てる事ができなかった、と言う事。金の子牛事件の時に神様は、こんな自分たちの思うとおりにならない神など神じゃない、と言った民にさえ、悔い改めの機会を与えました。自らの作品である十戒の板を砕き、私たちのためにはご自分の御子イエス様を十字架にかけ、砕かれ、これだけ愛しているんだ、どうか帰ってきてほしい、と。いやそれだけではない、人の罪の現実、苦難の現実の中に住まわれ、そんな彼らのためにも神様は戦われ、各部族にとってベストの土地を与え、たとえその中に困難があろうとも神様が必ず追い出してくださる、私たちの内にある思い煩い、戦い、傷、あなたの歩みを妨げる何かを追い払います、と約束されているのです。

 

私たちは自身の手で霊を満たす事はできません。しかし私たちを生きた者に、良い物で満たしたい、とその霊を与えてくださった神様に私たちはまず、ヨシュアのようにいつも神様と形だけのではない、本当の意味で生きた交流を持ちつつ、神様の愛を、恵みを思い起こし、すがり離れないようにしましょう。イエス様も山上の垂訓の思い煩うな、という話の一番最後の結論として、「何はともあれ、神様の国のご支配を求め続けなさい」とおっしゃられたように、ここに私たちの思い煩いを取り除き、霊を満たし生かすいのちがあり、また「人のすべての考えに勝る神様の平安が、あなた方の心と思いをキリストイエスにあって守ってく」ださるのです。イエス様の十字架にかけて、あなたに誓われたすべての恵みをあなたの上に神様は注いでくださる。まずあなたの失われた魂を取り戻すために十字架に架かられてまで死なれたイエス様が。

 

今日、イエス様はあなたを待っておられます。あなたの霊をイエス様のいのちで満たしていただき、本当に生きたものとしていただくため、主の前に今日もう一度帰ろうではありませんか。