「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」
ヨハネによる福音書9章1-7節
イエス様は私たちの暗く閉ざされた、罪の中に、暗闇の中にいる私たちを、その扉を開けて救い出され、ご自身の中・内に引き入れるべく来られた。こんな私、と思うような人のところにさえ。そこに神様の御心を、愛を現すために。
さて、↑の話は神の御子たるイエスキリスト様が人となって生まれてこられ人々の間に神様の愛を存分に現されていた頃の出来事です。ある日イエス様が道を歩いていました。エルサレム神殿の近くにあるシロアムという池、この辺を歩いていると、物乞いをしている生まれつきの盲人の方とイエス様は出会いました。ここにいる人たちは盲人、目の見えない方、耳が聞こえない方など、身体に障害を抱えている人たちで、彼らは社会からさげすまれ、働けないから道で物乞いをするしかないのです。その彼にイエス様は気付かれ、足を止めました。
すると弟子たちはその原因は彼の罪?両親の罪?と聞きます。ちょっと、本人を目の前にして、また彼の両親を目の前にしてなんと言うことを言うんだ?と言いたくなるところですが。
ところが、当時の彼らの考え方は常識的、一般的なものでした。十戒によりますと、父の咎を子に報いる、とありますから、子に何か大きな障害がある時には、親が何か大きな罪を犯した、と考えられていました。今考えるととんでもない!と思いますが。また預言者エゼキエルという人は、本人の罪は本人が負う、と預言しています。だから聖書を一生懸命読んでいた人はみんな、だからあんたが悪いんだ、あんたの両親が何か悪い罪を犯したから悪いんだ、と生まれてきた頃から散々言われ続け、罵られ、彼は傷ついていました。彼の両親も傷ついていたでしょう。
そこでイエス様はこのようにお応えになりました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親が罪を犯したからでもありません。神様のわざがこの人(の中に)現れるためです」と。
何という愛にあふれた言葉でしょう。実はイエス様は新しいことをあなたにするよ、と盲目の彼におっしゃったのです。イエス様が産まれる前の時代、目の見えない人が見えるようになったという奇跡は実は一度もなかったのです。これまでは因果応報で方付けられていました。だからこの者が悪い、とか、あの両親が罪人だから、と言って敬遠したり、傷つけていました。また今このシロアムの池の近くには大きな、絢爛豪華な神殿はある、けれども、そんな神様を愛する、と言っている宗教家たちは誰も彼を見向きもしない。
しかし、イエス様はこの通りすがり、道すがらに、誰からも目をかけられないような、いや、物乞いをして、みじめな目でしか見られない彼を見て、足を止められたのです。そしてこんな人からもさげすまれ、傷つけられた人たちに、道ばたに横たわる人々に、希望がない、生きる望みもない、裁かれ続け、愛を知らない、いや愛を受けたことのない人々に、本当にこの世に神などいるのか、と言う人に、彼らにいのちの光を灯しにこられたのです。新しい事、未だかつてない事をされるのです。イエス様は彼の希望となるため、痛みの中に、闇の中にいる彼の前に立たれたのです。そして神様のわざをおこなわなければ、という強い「愛の」使命感を持って立たれたのです。彼の前に、そしてあなたの前に。そして、その愛の使命感を持って人々に仕え、光を灯されたのです。
これは昔、2000年前だけの話ではありません。もし私たちが、イエス様を信じるなら、主は今も同じように、私たちの前に立ち、愛の、力強い言葉をかけられ、またあなたの内に住み、あなたの人生に光を灯し、あなたを生かすため、新しい事をされるのです。
イエス様は彼にこのように語りかけました。「この人の中に、あなたの中に神様のわざが現れる。いや、現れよ!」と。この愛のことばがけに、彼の暗闇の扉は開かれた。神様と断絶されていた、見捨てられていた、と思っていたのに、何と神様の方からその扉を開かれた。希望を抱かずには居られなかったのです。このためにイエス様は来られたのです。この閉ざされた断絶、罪によって隔てられた死の運命、滅びの運命、サタンの手から取り戻すため、私たちの身代わりに死なれ、その死の扉、墓を復活によってこじ開け、新しい彼と、あなたとされるために来られたのです。
はっきり言って、じゃあ誰でもシロアムの池というところに行けば目が見えるようになるのか?と言われたらそれはたぶんない。いやもしかしたらあるかもしれませんが。神様の御心なら。でも、イエス様がそうなれ!と言われるなら必ずなる。私たちの罪が十字架によって洗い流されるなら、私たちは神様の子とされ、新しい神様の愛が、ご栄光が、御業があなたの内になり、新しいあなたとなるのです。イエス様は彼の内、私たちの内、中に、いのちを灯させた、光を灯し、神様の栄光を現す器とされた、されるのです。
私たちを造られた主は私たちを本来の、いのちある姿に、生まれつき盲目だった彼を癒し、新しいスタートを切らせたように、造り変えることができるのです。私たちの人生、病、痛み、苦しみ、傷、恥、また罪・・・それら一切を癒すべく、洗い流すべく、主イエス様はシロアムの池という名の十字架上で、その血潮を流されまた、罪の呪いに勝利されることによって、私たちを覆っている罪、病、問題、傷、一切を洗い流されるのです。あなたの内にイエス様は住まわれ働き、癒され、新しく変えられるのです。
神様は本来あるべきあなたの姿に癒したい、とあなたを今日も訪ねて応答するのを待っておられる。あとは私たちがシロアムという名の十字架の前に帰り、悔い改めるだけ。その時、神様はあなたを瞬時に癒し、本来神様の子として用意していた最高の御心をあなたの中に現してくださる。今日、主に帰ろう。今日もあなたをイエス様は待っておられる。