「アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。』ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。」
イザヤ書1章1-9節
神様は語られる神様である。そして神様が私たちを形造って行かれる。それは別に支配したいからではない、あなたが神様のいのちにあふれ、喜びに満ち溢れるために語られる。私たちはもっと神様の御声を聞きながら歩みたいものです。
さて、↑の話は預言者という、神様のことばを預かりそれをそのまま語る人、その一人イザヤを通して神様が語られたことばです。紀元前、大体740年くらいですね。
当時、この語られているユダは軍事施設を造って他国から防衛する体制を整え、農業と牧畜行、これを熱心に推進したり、外国との経済の取引、そして、友好関係、これをしっかり持っていたんで。それで一応は、生活は非常に豊かになってきて、財産化も出てきました。また外国からのぜいたく品も輸入したり富んでいたんです。しかしその外国からの輸入で諸外国の宗教が入ってきた。農業のことは農業の神に、とか。
まあもしかしたらすべての人がその宗教に従っていたわけではないのかもしれないのですが、彼らはそうした富によって神様のことを忘れてしまった。神様なんていなくたって生きていける。別にこれらがあれば十分じゃないか、と。まあそうしたもの自体が極論神になってしまった。
神様云々関係なく、一つ言える事は、私たちは、私たちが慕い求める物によって形づくられていきます。ある意味家族関係とか友人関係もそうでしょうけど。追い求めるその声に聴いて自分という物が出来上がって行く。
話しは戻して、彼らは本当の養い主を、神様を忘れてしまった。誰が彼らを養い、大きくされてこられたのか。彼らは神様は何も「自分たちのためになるものを」与えない、と勝手に思っている、でもこの天地万物を造られ、彼らが自分たちの力で国を守っていると思っているその背後で神様が助けて下さっている事を忘れていた。あのエジプトで奴隷として捕らえられていた彼らを憐み救われ、今こうして国がっている事を…
私たちは神様から離れてなど生きて行く事などできない。いや、一応は物理的には生きていますよ?でも、私たちを本当に生きた者に形づくられるのは神様のほかにはいないのです。彼らの支えとしていたものはやがては崩れ去る。彼らの自慢の防衛も、アッシリヤやバビロンの前にはなすすべもなくなった。それこそ、「頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない」。
でも、神様は生きた・生きている神様。あなたを愛するという最大の感情を持った神様。王が変わろうが時代が変わろうが、あなたに生きてもらいたい。あなたが弱り果てる事がないよう、足の裏から頭まで、うち傷も癒され、包み、油で和らげて下さる。↑で記されたのとは全く真逆の神様なのです。
だから、私たちが神様から離れ、すたれ、荒れ果て、傷つき、滅びに向かっていく彼らを見捨てる前に、私は愛している、あなたを待っている、とまさにまず最初に神様は、そうならないために語られ、導かれた。最初から見捨てる予定ならこんな事はわざわざ語らない、一発で裁いて終わりでしょう。でもそれをしなかった。ソドムとゴモラのように悔い改めず滅びに向かうことがないよう。
聖書では何度も、時代が変わろうと、イエス様もいつも「よく聞きなさい、聞く耳のあるものは聞きなさい」と聞くことを求めます。神様が、と言った方が良いか。どうしてか。私たちを神様は養い導く、いのちの道に導くため、私たちを本当の喜びの、御心によって形づくるために語らえるのです。神様は語った言葉によって私たちを形成してくださるのです。本来神様にある御心の姿に、ご計画のうちに。いのちのうちに。出来事を起こしてくださるのです。私たちが聞き従う時に。
神様はイザヤを通してその救いの道をあらかじめ示されたように、私たちにもその救いの道を示された。究極の形成、出来事、罪からの救いと永遠のいのちを与え、神様の子として造り変えるため、私たちの罪の身代わりに御子イエス様を十字架に欠けられ身代りに罰せられた。この十字架において「裁きが・救いが完了した」と宣言された。イエス様の、「父よ、彼らをお赦しください、彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と赦しを懇願したその祈りを父なる神様が受け取られ。私たちが自分の罪を御子イエス様の十字架の前に悔い改めるとき、私たちはそのイエス様の十字架の血潮によって、罪の奴隷・裁きを待つものから、神様の子へと作り変えられるのです。
私たちはこのイエス様の十字架を前に、叫びの前に何を思うだろうか。この十字架によってあなたは神様に買い戻され、今や神様の子とされる。私たちはいつまでこの愛を拒むだろう。あなたを生かし、形づくられる、あなたの内傷一切を癒され、満たされる、あなたの内に住まわれる、あなたのために命さえ捨てることのできるこのイエス様に信頼しようではありませんか。
「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ」。今日もあなたのために命さえ惜しまず与えられた主があなたに語られる。導かれる。あなたはこんな神など信じたって何の役に立つか?と思うかもしれない。しかしあなたはこのイエス様を信じる時、神の子とされる。御子のいのちさえ惜しまず与える方があなたを全ての霊的祝福をもって満たされ、導かれる。今日、この方に信頼し歩もう。神様が形づくられるその御心を喜ぼう。