「それから、私は彼らに言った。『あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう。』そして、私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた。そこで彼らは、『さあ、再建に取りかかろう』と言って、この良い仕事に着手した。」
ネヘミヤ記2章17-18節
私たちの生涯は神様によって建て上げられるからこそ意味がある。神様が守られるからこそ、私たちはいのちを得る。いや、神様は本来あるべきあなたにするためにその愛を注がれたのだから、私たちはこの神様にあって生きよう。
さて、↑の話はイスラエルがバビロン捕囚にあった後の話。かつて神様によって祝福され、その王国が反映し、他国の王たちもうらやむほどの繁栄を得ていたイスラエル。しかし、神様を王に据えるよりも自分の王国を築くイスラエルは神様の祝福を失い、まあ自分で捨てたのだからある意味では自業自得といえばそうなのですが、ついに彼らは、北イスラエルはアッシリヤ帝国によって捕囚され、民は散らされ、南ユダはバビロンによって捕らえ移され絶望下に置かれた。
神様はしかし何度もその御手を伸ばされ、預言者を通して悔い改めるよう、帰るよう、このままでは大変なことになる事を訴え続けた。見捨てるならとっくの昔に見捨てられていてもおかしくはなかった。しかしそれでも、何度も悔い改めの機会を、救いの機会を示されていたのに彼らは拒否した。
彼らは自らその救いの機会を拒否したわけですが、神様の願いは基本、昨日も書きましたが、私たちが生きる事です。本来あるべき姿に、神様の子として本来神様が私たちに用意しておられた最高の愛、御心という資産を受け神様と共にそのいのちの内に歩む事です。だから、神様は何度見捨てられてもおかしくない中においても、預言者を通して神様の愛を、奇跡をなされていった。それは彼らが神様に立ち帰り生きる、本来あるべきものを取り戻し、新しいいのちを建て上げて行くことにあった。
だから神様は70年後には彼らを捕らえていたバビロンを打倒す、解放し連れ戻すから、神様に信頼し待ち望むように、その神様に望みをおこう、そう訴えていた。そして捕囚中も必要な助け手を多く起こし、その彼らを通しても神様は養い続けて下さっていた。そしてついに今彼らは解放され、救い出され、ありえないほどの恵みを受けながら自分たちの国に帰って行くのでした。
その中で、崩れ去った町の姿を知って、荒廃と化したそのかつての栄光の町を見て、ネヘミヤというペルシャ帝国の献酌官(分かりやすく言うと王の毒味をしたりする人)は王に願い出て、イスラエルに帰還し、建てなおさせてほしい、と願い出るのでした。「私の先祖の墓のある町が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして悲しい顔をしないでおられましょうか」と言って。
そう、彼は古い栄光を失った王国、神様を取り除いた王国を再建したいのではない、先祖たちを神様が祝福していた頃のように、神様が中心となるその国をもう一度建てなおしたかったのです。彼は、神様がこれを成し遂げて下さると信じ、さあ、神様の栄光ある国をもう一度建て直そう、そう国に帰って、多くの邪魔者がいる中で、訴えたのでした。この国を建てるのは我々人間ではなく神様なのだから、何を恐れる事があるだろう、さあ、取りかかろう、と。
人間の目から見たら、正直彼らが建て直すのは絶望的な状況でした。罵られ、愚かな事、と言われるようなことかもしれない。しかし神様がそれを建て上げるのだから、不可能はない、と。それこそ、ある詩人が「 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなけれ ば、守る者の見張りはむなしい」とうたったように、神様がこれを建てるなら、空しいことにはならないのです。↑には書きませんでしたが、さらに「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。だから、そのしもべである私たちは、再建に取りかかっているのだ。しかし、あなたがたにはエルサレムの中に何の分け前も、権利も、記念もないのだ」と告白した通りです。
私たちはこれを忘れてはいけないのです。私たちも本来イスラエルの民のように見捨てられ、その罪ゆえに、神様から離れ自分の好き勝手な王国を自分で建て、神様を排除し捨ててきた私たちなど神様に見捨てられ、荒廃とした滅びゆく者でしかなかった。しかし神様は見捨てず、ついに私たちを救い出すべく、あのバビロンから解放してくださったように、絶望的な死の奴隷の中、罪の奴隷の中から救い出すために、私たちが支払うべき罪の報酬、死を御子イエス様に負わせ身代りに支払わせ、罰されたのです。
そして神様と私たちを和解させ、本来あるべき神様の子としての神殿を、イエス様が住まわれ、あなたの内に建て上げて下さるのです。御子イエス様を、自分の罪のための救い主として、悔い改め信じ受け入れるなら。このキリストの十字架の血潮のゆえに、あなたの内に新しい神殿を神様ご自身が建て上げて下さるのです。
どの神殿を建てるのか、それは最後はあなたの決断。しかし、もしあなたが神様の前に帰り神様に願うなら、神様はその御子イエス様ゆえに新しい神殿、いのちを、神様の子としての新しいいのちを与え、築き上げて行ってくださる。そう、ある一点ではない、あなたそのものを買い戻された神様が、あなたの内に住まわれあなたの内側から日々新たにしていってくださる、建て上げ続けて下さるのです。これにあなたが期待し、「さあ再建しよう」ではなく「再建してください」と願う時。あなたが再建するのは神様の前に立ち帰る事、これだけ。あとは神様のなさることを信じ委ねるだけなのです。
神様が御子イエス様のゆえに建て上げようとしているあなた。これにどうして期待せずにはいられましょう、どうして疑う必要があるでしょう。私たちは御子イエス様の十字架ゆえに、神様との和解を願い、「再建」を願い主の前に帰ろう。和解させていただき、新しいいのちを、種によって建て上げていただこうではありませんか。神様の栄光が、御心があなたを通してなされていくことを信じて。