ーわたしは生きているー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『わたしは生きている、―神である主の御告げ―彼は、自分を王位につけた王の住む所、彼が誓いをさげすみ、契約を破ったその相手の王の住む所、バビロンで必ず死ぬ。戦争になって、多くの者を断ち滅ぼそうと、彼が塁を築き塹壕を掘っても、パロは決して大軍勢と大集団で彼をかばわない。彼は誓いをさげすみ、契約を破った。彼は、誓っていながら、しかも、これらすべての事をしたから、決して罰を免れない。それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう。わたしは彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をバビロンへ連れて行き、わたしに逆らった不信の罪についてそこで彼をさばく。彼の軍隊ののがれた者もみな剣に倒れ、残された者も四方に散らされる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語ったことを知ろう。』神である主はこう仰せられる。『わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。』」

エゼキエル書1716-24

 

神様の私たちへの願いは生きることである。それは私たちが神様のうちに生きることである。そこにはいのちがある。私たちはこの神様のうちに生きよう。

 

さて、↑のことばは、いよいよイスラエルがバビロンに捕囚されようとしていた頃、預言者エゼキエルを通して神様が、これからイスラエル、もとい南ユダに起こる事、そしてそれだけでは終わらず神様が何を計画しているのかを語ったものです。まあその一部ではあるのですが。

 

その中で、エホヤキンという王をバビロンに移し、バビロンがゼデキヤという王を選んだこと。彼らはそのゼデキヤを通してイスラエルを繁栄させ、屈服させようとしたのです。しかし、そのゼデキヤ王はバビロンに反旗を翻し、エジプトに寝返った、エジプトの助けを借りてバビロンを打とうとしていたのでした。ようするに敵の敵は友でしょ、という論理で。でも神様は、↑の前半部のように警告するのです。その反旗によって、バビロンの怒りを買い、結局のところ滅ぼされることになる、と。

 

それは神様が彼らを見捨てる、という宣言なのか?いや違う。神様は彼らを見捨ててなどいなかった。だから、もう一つの生きる道を示されていた。↑の後半を見ると、良く分かる。まあ詩的な表現なので分かりづらいかもしれませんが、捕囚では終わらない、ということです。

 

すでに何人もの預言者を通して語られていたことではありますが、必ず70年の後には彼らを捕囚地から連れ帰り、そこで大国の狭間で歴史に翻弄されたダビデ王家の木の梢を切り取って、それを「高いすぐれた山」に植え、繁茂し、多くの者たちを受け止める大木となる、と約束されたのです。

 

だからこそ、エジプトに頼る云々ではなく、神様がなされようとするその御業に目を留めるように、そう訴えているのです。しかし残念ながら、仮に捕囚に会おうとも助かる道は何度も示されながら王は神様を排除し、最後はむごたらしい死と共に南ユダは捕らえ移されていくのでした。家族はゼデキヤの目の前で幼子も含めバビロンに惨殺され、本人の目も…神様は見捨ててたわけではない、そんなむごい目に合わない道はいくらでも示されていたが、最後はとても残念な話。

 

考えてみたら、イスラエル王国はダビデの後には自分を中心とした、自分の王国を建てようとしていた。そして神様を排除し、自分の望むものを得ようと、あっちこっちに頼り始めた。神様など頼らなくても、むしろ自分に利益をもたらすであろう、目に見える利益をもたらす他国と契約を結ぼう、そう考えた結果、どんどん衰退していった。神様の御手が、恵みが離れて行ったから。本来はそれこそ、↑の後半の約束にあるような恵みを注がれるはずだった。でも神様が治める事よりも自分の利益があることの方が大事としてしまった。神様のくださるものがどれだけ素晴らしいかを忘れてしまったのです。

 

これは国家の話だけにとどまらない。私たちは自分の王を、神様を排除し、自分を中心とした、自分を王とし、神とする。神様が自分を治める事を良しとしない。神様がどれだけ素晴らしい物を備えていても、自分にとっての利益をもたらすかどうかで見てしまい、排除する、これはイスラエル国家だけにとどまらず、アダムとエヴァの時代からもう何も変わらない。その神様を排除した、神様を捨てたこの罪から来る報酬は、どの歴史を見ても死。その人生も神様の祝福を失い死を負い、霊的にも最後は裁きが待っている。それこそ↑のゼデキヤ王の悲しい最後と同じではないか。

 

しかし、イスラエルを見捨てず、その地でも憐みを示され、最後には彼らを救い出し、彼らの国を回復させたように、神様は私たちに憐みを示された。そして↑の約束を御子イエスキリスト様によって成就されたのです。私たち、罪の捕囚によって瓦解してしまった私たちを取り戻すため、死んだ私たちの魂を生き返らせ、新しく生まれ変わらせるために、神の御子イエス様を遣わし、私たちの罪の報酬である死をその身に身代りに追われ、背負われ、身代わりに罰せられたことによって、ゼデキヤのようにではなく、神様に悔い改めに生きる者には、御子イエス様と共に復活の恵みに与り、新しいいのちを、神様のいのちが溢れさせてくださるのです。

 

本当にからしだねのような小さな私たちが神様の恵みによって大きく成長させ、いのちを結ばせてくださるのです。いや、御子イエス様の十字架が全世界の人々の救いが宿る木となったのです。↑の約束はイスラエルの回復にとどまらず、あなたへの、神の御子イエス様にある約束でもあるのです。イエス様の十字架にあってあの約束はあなたの上に成就する。

 

神様はエゼキエルを通してさらに後の章でこう語られました。「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ―だから、悔い改めて、生きよ」と。神様の願いはこれだ。あなたを生きた者にしたい。あなたの内に神様の御国を、神様の御心を現したいのです。

 

私たちは、あなたは今日、誰を神様としていますか?あなたがイエス様を王の王として迎える時、あなたの内に神様の建て上げる御国が広がる。御子イエス様の十字架にあって成就するこの約束に大いに期待しよう。この神様は昔だけ存在した神ではない、今日も生きておられる神様です。あなたの内に神様の御心がなる事を信じ、この神様と共に歩もう。あなたのために命をも投げ出された主は、今日も生きておられる。この主が語られ、成し遂げて下さるから。