ー『みことばの上』を歩くー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『あれは幽霊だ』と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。すると、ペテロが答えて言った。『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。』イエスは『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、『確かにあなたは神の子です』と言った。」

マタイによる福音書1422-33

 

私たちは確かに嵐の中を通るような時もある。でも私たちがどこを歩くのか?それは私たちとイエス様がその十字架によって結ばれ約束された御言葉の上にしっかりと立ち歩く、これが大事。誰かが堂とかは関係ない、あなたと神様にあるみことばの上にしっかりと立とう。

 

さて、神の御子たるイエス様が今から約2000年ほど前、救い主としてお生まれになり、人の間に生きられた日々の中の出来事の一つが↑の話。イエス様の誕生については、さらに今から6000年ほど前、最初の日とアダムとエヴァが罪を犯した直後に約束されていたわけですから、ずっと神様はその約束を反故になさること無くついに果たされる時が来、ついにイエス様がお生まれになられたのでした。

 

イエス様の来られた目的は、何か奇跡を行うとか癒すとか、そういう一時的なものにはなかった。もちろんそれらを喜んで行われた。それはそうです。神様の愛する作品である私たちが闇に閉じ込められていてどうして放っておく事ができますか。でも、その本質は、私たちが神様の方に方向転換・悔い改めて神様に帰る、神様と共にその恵みといのちの内に歩むことにあったわけです。

 

↑の出来事はある意味でそれを大いに象徴した出来事の一つだったと思います。この直前、イエス様は5つのパンと2匹の魚だけで約2万人の人を満腹にさせた、という大きな奇跡を行われました。しかしイエス様の「奇跡」だけに注目して人々はイエス様を追いかけていました。ほしいのは「自分の現状」を満足させる、召使い的神。そんなわけでこれらの群衆を帰したわけですが。結局追いかけてくるんですけどね。

 

そんな中、弟子たちを先に舟で次の目的地へ行かせ、イエス様は祈っておられ後から湖の上を歩いて渡って行くのでした。まあすごい話ですね。ちなみにこの弟子たちの中にはプロの漁師も何人もいて、今渡ろうとしている湖も何度も経験しています。しかし、この湖の真ん中で立ち往生し、しかも真夜中、今のような船でもないので、どうにもならなくなっていました。そこにイエス様が歩いてこられたのです。どれだけ驚いた事でしょう。

 

イエス様を見つけた、イエス様の弟子の一人、ペテロはこの時何を思ったのか、「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と願い出るのでした。「私を水の上を歩かせてください」ならわかりますが、そう命じるよう、ペテロはイエス様のことばを求めたのです。そしてイエス様はそれを喜び彼を招き、彼・ペテロはその命令・みことばの上を歩いたのです。まあ確かに水の上を、嵐の中湖の上を歩いたわけなのですが。

 

私たちは何か奇跡的なものの上に立つのではない。奇跡を否定するわけではないですが、もしそうなら、奇跡がない時はどうします?それが神様の御心でないのなら?ちょっと脱線しますが、ある国で、この箇所を見て、「信仰があるなら湖の上を渡って行けるはず」と何人かのクリスチャンが手を繋いで湖の上を渡って歩いていこうとした。そして結果は?何と全員おぼれ死んだそうです。

 

話が逸れてしまいましたが、私たちはイエス様のみことばの上を歩くのです。イエス様が、来なさい、というなら、それがどんな嵐が吹こうが関係ない、私たちはこの上を歩くことができるのです。

 

ペテロは嵐を恐れましたが、イエス様が招かれたその道は時には嵐もあるでしょう。それは誰だって同じ。しかし、その道を歩かせてくださっている方は誰なのか?それはイエス様ではありませんか。神の御子たるイエス様が、あなたを招きに来られたではありませんか。罪の奴隷から救い出し、神様の元へと。神様の家族、子へと。ご自分のいのちを十字架にあなたの身代わりになって架かって死なれてでも、あなたを神様の元に引き戻し、神様との新しいいのちの関係へと招かれたではありませんか。あなたのその道を保証しているのは神の御子イエスキリスト。そのイエス様が十字架から、我に来よと、招かれているんです。「来なさい」と。イエス様のいない船旅、嵐の中を旅するのではない、イエス様がその道を歩ませ、導かれる。共におられるのです。イエス様がいるから私たちは恐れる必要はないのです。恐れるのは誰だって人間起りえる事、しかし誰があなたと共にいるのか、もう一度思い起こそう。

 

そのイエス様があなたに語られる約束を、みことばを信じ歩もうではありませんか。イエス様はいつも、きれいごとを言うのではなく、そのいのちの道を示され続けた、ここにいのちがあるんだ、と。私たちはこのイエス様の声に耳を傾けつつ、イエス様が招かれたこの道をイエス様と共に聖霊様に導かれながら歩もうではありませんか。この道を保証しているのは誰なのか、をもう一度覚え。