ー宝を与えるのは神様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

マタイによる福音書619-21

 

イエス様の与えて下さる宝は、尽きる事のないいのちをもたらすものである。誰もこれを壊す事はできない。神様は今日もあなたにその宝を与えたい、注ぎたい、と待っておられる。私たちはこのイエス様にあって希望を持ち続けたい。

 

さて、神の御子たるイエス様がある時、幸いな人とはどういう人なのかを話されていたとき、↑のように話されました。まあこれはその中のほんの一部なんですが。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。…自分の宝は、天にたくわえなさい」と。

 

ん?つまりお金を稼いではいけない、貯金をしてはいけない、富を築くことなく質素に生きなさい、ということか?まあそう導かれる方はそう生きてもいいかもしれない。そういう生き方もあると思う。もしくは、尽きて行くものばかりを追い求めない、それもまた一つ。

 

でも、イエス様が教えたいのは、その側面もあるのですが、もう一つ大事な事を教えて下さっているのです。それは、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」とイエス様がおっしゃっているように、私たちの希望をどこに置くか、ということなんです。別に物理的な物だけを指しているわけではない。

 

私たちは本当に弱い者で、問題や戦いに対して、目に見える希望を求めやすいのです。神様が自分に対して今見えなくても最善の結果をもたらしてくださる、と信じることができないから。それはそうですよ。未来が見えない。それは不安。その気持ちは本当にその通りだと思う。これ人間の弱さだし、私もそう。それはお金だったり異性だったり、何かの思想だったり。それらによって自分の「不安」を埋め合わせようとする。

 

それだけではない。神様がいなくても大丈夫といって、神様を捨てて生きて行く自分を神とする、そんな神様から離れて行ったところにいるとき、私たちの真の希望、いのちはあっという間に盗まれていく。罪の結果最後は私たちのいのちは盗まれ、永遠の滅びへと向かう。もしくは、自分勝手な神様像を造り出し、それに神様を無理やり押し込めようとしても、それは自分が作った神であって、自分が主役となる、ある意味自分が神となっている分だけやはりこれもあなたを神様から盗み出していくのです。

 

でも、そうして不安を地上のどこかに抱え込んだって仕方ないじゃないですか。疑って自分を神として誤魔化そうとしたってそれはあなたに命を与え、宝のように養う事はできずにいつかは穴が開いていく。そんな宝とも言えない不安をどこにもやり場のないところに抱え込んだってどうしようもない。自分の心を、そんなところにため込んだってどうにもならない。

 

今日、大きな地震がありましたが、不安を覚える事は別に間違っていない。どうにもならない重荷や思いはある。それは弱いとか強いとかそういう問題ではない。しかしそこであなたの心が盗まれ、悲しんだままに神様は決してなさりません。昨日も書きましたが、私たちの不安や悲しみ、絶望を神様は放っておくことはされないのです。不幸を喜ばれる神様ではない、苦難の日に黙っておられる神様ではない。むしろその苦難と闘ってくださる。惜しみなく、その天の御座からあなたのために、尽きる事のない宝を、愛を、注がれる。あなたの不安という心を希望に変えて下さる。失ったものに対しては、神様が何かに変えて与えて下さるでしょう。

 

事実、神様から離れたイスラエルの民が捕囚にあっても、あわれみ深い神様はその愛を注ぐことを辞めることができず、捕囚地にあって助け手を送られた。その彼らを通してご自身の希望を与えておられた。またその敵を打ち破り解放して下さった。あの裏切った弟子たち、群衆たちを見捨てられず、彼らの最大の絶望、罪の問題を打ち砕くために「父よ彼らをお赦しください、彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と懇願された。そうして神様は彼らの、いや私たちの罪・永遠のさばき・死を、イエス様のいのちという宝によって変えて下さり、永遠の希望を与えて下さった。罪の奴隷から神様の子へと、死から命へと。

 

この十字架にあって、神様とあなたの関係は「虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗」む事などできない。あなたを神様から盗み出す事などできない。私たちは御子イエス様という最大の宝をいただき、御子イエス様にあって罪の赦しと永遠のいのちを得た。その関係の中にあって注がれる神様の愛は地上のもののように尽きる、力のないものではない、イエス様にあって保障された尽きる事のない、霊的な祝福を与えて下さるのです。その愛も祝福も恵みも、決して尽きる事はありません。御子イエス様にあってあなたは神様のものとされたのだから。私たちは御国を受け継ぐものとされたのだから。もしイエス様をあなたの罪ゆえに十字架に架かられ死なれ、なおよみがえられた救い主として信じ受け入れる時。

 

もう私たちはこの十字架にあって結ばれた関係を、神様ご自身を疑うことを辞めよう。この神様がどれだけあなたを愛しておられるのかをもう一度思い起こし、ここに希望を抱こう。今は苦難の時かもしれない。しかし、あなたは神様の子。あなたと神様は切っても切れない関係に、イエス様の十字架によって結ばれているのだから。神様があなた自身を盗ませたり穴を開けさせない。今この時を通して神様がなさる、いまなして「くださっている」ことに、いや神様ご自身に希望を抱こうではありませんか。この宝の価値を地上の物と比べてはいけない。オンリーワンの最高の宝をあなたはイエス様の十字架にあっていただいているのですから。

 

イエス様の与えて下さる宝は、尽きる事のないいのちをもたらすものである。誰もこれを壊す事はできない。神様は今日もあなたにその宝を与えたい、注ぎたい、と待っておられる。私たちはこのイエス様にあって希望を持ち続けたい。今日、イエスさまこそ私の宝である、と告白し歩もう。