ー秘められた神様の思いー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「テマンよ。あなたの勇士たちはおびえる。虐殺によって、エサウの山から、ひとり残らず絶やされよう。あなたの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥があなたをおおい、あなたは永遠に絶やされる。他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、あなたもまた彼らのうちのひとりのように、知らぬ顔で立っていた。あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。彼らのわざわいの日に、あなたは、わたしの民の門に、入るな。そのわざわいの日に、あなたは、その困難をながめているな。そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばすな。そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがるな。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡すな。主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたにもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」

オバデヤ書9-15

 

神様はあなたの苦難の日に眺めていて知らんぷりなどしない。あなたの不幸を喜ばない。神様はあなたのために行動を起こされる神様であることを忘れてはいけない。

 

さて↑のことばは預言者と呼ばれる神様から言葉を預かりそれを民に語る人の一人、オバデヤという人を通して神様が語られたことば。↑のことばを見ると神様もずいぶん厳しいことを言うなあ、と思われる方もいるかもしれません。神様は愛の神様でしょ?なんでそんなことを言うの?と思われるかもしれない。でも神様は愛の神様であるのと同時に義の神様でもあるのです。もし罪を放置したらどうなるか、それは今の世の中を考えれば非常にわかりやすいでしょう。ただ、義であり愛の神様は、救いの御手を伸ばされている。その救いの道を同時に用意される…

 

と、いきなり話がそれましたが、神様はオバデヤを通してエドム人に↑のように訴えるのでした。聖書をあまり読んだことのない人にはピンとこないかもしれませんが、エドムというのは分かりやすく言うとイスラエルの兄弟国、と言えば分かりやすいかもしれません。イスラエルの初期の一族で、エサウ(兄)とヤコブ(弟)の兄弟がいたのですが、エサウはその一族継承の権利でもある長子の権利をないがしろにし、弟ヤコブは兄からそれに乗じてだまし取り(私としてはヤコブへの神様の約束を彼は握りしめていたからとも思えるのですが)、エサウがヤコブを恨み殺そうとしていたということがあったのです。その後数十年後に和解し、エサウからはエドムの国が興り、ヤコブからはイスラエルの国が興ったのでした。

 

ところがどうもこの地域に残る記録によると、和解した後に弟が自分たちについてこない事を赦せず、またエドムよりもイスラエルの方が祝福されている、神様に用いられている(実際は神様はエサウ一族のエドムも祝福していたんです)ように感じてこれを逆恨みし、かつてイスラエルがエジプトの奴隷から解放され、イスラエルの地に帰ろうとする時にその行く道を妨害したり、時にはイスラムの元となった一族と手を組みイスラエルを攻撃したり(これは聖書の時代に関らずその思想は今も続く…)。

 

まあその他の様子は↑にあるように、「他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取った日、知らぬ顔で立ち、その災難の日を、ただながめ、滅びの日に、彼らのことで喜び、その苦難の日に大口を開き、彼らのわざわいの日に、民の門に入ってそのわざわいの日に、その困難をながめ、そのわざわいの日に、彼らの財宝に手を伸ばし、そののがれる者を断つために、別れ道に立ちふさがり、その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡した」と。それゆえに神様は彼らに対して裁きの宣告をされたのでした。

 

この神様のことばを、エドム人が可哀そう、という視点で見ると問題の本質を見失ってしまいます。逆のユダヤ・イスラエルの視点で見ると、そのような窮地に立たされている民を、私たちを神様は見捨てていない、そのような者に対して神様はその御手を伸ばしてそこから救い出してくださることが見えてきます。

 

エドムの視点から見ても、上にも書きましたが、そもそもエドム・エサウ一族だってものすごく祝福され、財産も多く増やされていたのですよ?にもかかわらず、彼らは神様がどれだけ自分たちを愛し、祝福されているのか、それを忘れて、他の国と自分の国を比べて神様は自分たちを愛していない、と考え離れて行ってしまった。でも神様は彼らのことさえ覚えていたのに捨ててしまったのです。神様から離れたところにはいのちは決してありません。

 

私たちはどちらに立つのでしょう?私たちが忘れてはいけないのは、神様はエドムの取った行動とは全く逆の行動をされる神様です。神様はあなたの苦難の日に眺めていて知らんぷりなどしない、あなたの不幸を喜ばない、神様はあなたのために行動を起こされる。それこそヤコブを苦しめるエドムという問題に対して神様が手を伸ばされていたように。私たちはエサウのように、自分を自分の思うように何でも与えない、思うようにしてくれない、と勝手に考えますが、神様はちゃんとそれぞれに目を注がれているのです。ただ、彼らはそれを忘れていただけで。

その究極的な神様の私たちへの御思い、秘められた思いは、確かに御子イエス様に現されました。本来エドムのような友を愛さず、神様を捨て、神様を神様とも思わず、自分の思うように神様を操ろうとする私たちなど、裁きの宣告を受けても仕方がなかった。それでも神様はその御目を私たちから離さなかった。むしろ愛であり義である神様は、私たちの負うべき裁きを、愛ゆえに神の御子たるイエス様に身代りに背負わせ、身代わりに罰せられ、身代わりに死なせた。あなたの事を愛していないなら、あなたの事をその苦難の日に見捨て黙っているというなら、どうして神様は御子イエス様をあなたの身代わりに罰する事などできるだろうか

 

当時の人たちは御子イエス様がどれだけ愛され、また癒され、彼らのために救いの道を、神様の愛を語っても裏切り、自分たちのためにローマと闘うわけではないイエス様(実際は最終的には打ち砕かれましたが)などいらん、と捨てた彼らを神様がどうして裁かないでいられるだろう?それでもイエス様は「父よ彼らをお赦しください、彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と赦し、十字架から降りる事をしなかった。父なる神様は私たちを見捨てる事をせず、むしろイエス様を黙って見捨てた(という言い方が的確かどうかは何とも言えませんが)。それでもあなたを救い、罪の奴隷、永遠の裁きから救い出し、あなたを神様の子として引き上げられたのです。あなたがイエス様を自分の罪のための救い主として信じ受け入れる時この十字架による神様の愛はあなたの内にも注がれ、あなたも神様の子とされる。復活のイエス様と共にあなたは新しく生まれ変わるのです。神様の子として。

 

あなたはそこまでも神様に愛されている。あなたを捨て置けない神様は御子イエスさまさえ惜しまず死に渡すことができる。そして、イエス様があなたの内に住まわれ、あなたの内に、愛を、ご栄光を現され、神様ご自身の御心があなたのうちに現され、本来あるべきあなたへとなるのです。神様の子として、御子イエス様のいのちを持って買い戻されたあなたに。

 

私たちはこのアイデンティティを覚え、この神様により頼み歩もう。エドムのように神様の祝福を忘れるのではなく、どれだけ神様に愛されているのか?神様がどれだけのことをされたのかを覚えよう。イエス様の救いを忘れてはいけない。エドムのように捨てるのではなく、捨てられるべきだった私たちが救われた、この神様と共に生きよう。神様はあなたの苦難の日に眺めていて知らんぷりなどしない。あなたの不幸を喜ばない。神様はあなたのために行動を起こされる神様と共に今日も歩もう。