「ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。『わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。』…『さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。』さらに神は仰せられた。『わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。』」創世記8章20-9章16節
神様は人と契約を結ばれる。神様はその契約を反故にはされない。イエス様の十字架の血潮にあって。その契約は途切れる事のない契約。神様から提示されたこの契約を私たちは忘れてはいけない。
さて、↑のことばは、世にも有名なノアの洪水の後の話。ノアの洪水は神話と言われていますが、その爪痕は世界中に残されていたりするんですよ?まあ、その個々についてどう判断するかはここでは議論はしませんが。その時、世界中でノアの一族をのぞいて神様は正しい人を見出さなかった。いや、神様の心にかなう人が、と言った方が良いでしょうか。それで、洪水によって滅ぼそうと決め、それでも100年間の猶予を与えていた。人が帰るための。悔い改めるための。そして最後も、神様は1週間待っていた。しかしノアの一族以外は神様に立ち返る事無く、洪水によって滅ぼしつくされた。
そしてその後世界の最も高い山さえ覆うほどの水も引き、神様の導きの元、箱船から出たノアは一番最初に↑のように神様にいけにえを献げた。滅びから救われたからあとは好きに生きる、というわけではなく、それでも私は神様と共に生きる、と決断したその告白だったと言ってもいいでしょう。その彼の祈りを、思いを神様は喜ばれたのでした。そこで神様は↑のように独り言から始まり、ノアと契約を結んだのでした。
まあ本当は前半部と後半部を分けてシェアしたかったのですが、最初の神様の独り言部分を見ると、それでよく契約を神様は結ばれるな~と思ったわけです。神様はこうおっしゃってますよね。「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」と。それにもかかわらず、もうこのように滅ぼすことはしない、と。また↑のようなすんごい契約を結ばれた。もう滅ぼさない上、四季、昼夜関係なく止む事のない神様の恵み。いきとし生ける者すべての者の上に。
普通なら逆。思い測ることはあくなら、もう捨ててノアの一族で地上を終わらせよう、もしくは新しい一族を起こして、そこから人類をやり直そう(別のアダムとエヴァを造るとか?)と私なら考えそうですが、神様はそうされなかった。
そう、神様は人が神様の元に帰って来るのを待っておられるのだ。ノアが、洪水の後、裁きは免れたし後は好きに生きよう、とはせずに、神様の元に帰り、いけにえを献げた、神様と共にそれでも生きると決断して帰って来たように。神様は昼夜問わず四季問わず、あなたに恵みを注ぎたい、だからわたしの元に帰ってきてほしい、そう神様は願ってこの契約を「人間が何か善行を積む前に」、「神様から」まず契約内容をご提示されたのでした。何と驚くべきはなし。しかしこれが神様の愛。
この契約は時が経っても無効となる事はなかった。時代が変わって人が悪に染まっても、それでも神様はその愛を注がれ続け、時には直接的に救われたりされた。内容は変わらずにむしろより良い契約へとなっていき、契約はずっと反故にされなかった。ときに神様に逆らって離れて行こうとも、帰って来るのを待っておられた。捕囚に会おうともその地にあって助け手を送ったり、その助け手を通して神様の愛を現したり、見捨てずに救い出されたり。
なんでそこまで?と私たちは思う。でも神様は私たちを愛しておられるのだ。親が我が子を愛する以上に神様はご自分の手で精魂込めて造った私たちを愛する。だから私たちが神様から離れ、その恵み、養いを失い滅びゆく事が我慢できない。子は親元を離れては生きていけない。親の養いがあって生きる。私たちも神様から離れては本当の意味では生きることはできないのです。
そして、神様はノアに対しては目に見える虹をもって、この契約の記としたように、これを見るたびに、彼らが神様が愛されている事、そして虹のない時であろうとも神様はそれでも養い続けて下さっている事、再び虹を見る日が来ることを知らせたように、私たちには神様は、神の御子イエスキリスト様を十字架に架ける事によってその契約を結ばれた。
私たちは神様を自分に利益をもたらす道具適度にしか見ず、役に立たなければすぐに捨てる。自分が神となってしまって、真の神様を捨てる、いや殺してしまう。そんなノアの洪水前のもはや滅びるしかないような私たちを見捨てられず、その裁きを、神の御子イエス様に負わせた。どれだけイエス様がその愛を注がれたことだろう。その尽きぬ恵みを具体的に現されたにもかかわらず、彼らは、いや私たちはイエス様を十字架に架けた。それでも神様は、私たちの救いのため、あのノアへの契約のごとく、見捨てられず、こんな奴らを救ってやるかとは思わず、むしろイエス様を十字架に上げ、私たちの罪の身代わりに罰せられた。そして陰府にまで下らせるという神の御子としてはあり得ない恐ろしいことをその身に負わせた。なぜ?それでも神様はあなたが帰って来ることを待っておられるから。
この十字架に神様の愛を私たちは見る。私たちは神の御子イエス様によってその罪を身代りに罰してまでも取り戻そうとされるほどに愛されているということを。そしてあなたのために御子イエス様のいのちを惜しまず与える方が、おられる事を。変わることのない永遠の契約がこの御子の血によって結ばれたことを。私たちがノアが神様の元に帰ったように、私たちがこの神様の元に帰る時、私たちはもはや、虹の見えない日であろうとも、大雨の日であろうとも、昼夜問わず四季を問わずあなたを覚えておられる、そのことをこの十字架に見るのです。御子イエス様にあって私たちを神様ご自身のもの・子といまやされたのですから。私たちはただイエス様の十字架の前に罪を悔い改め、イエス様を自分の救い主として信じ受け入れるだけで私たちの罪は赦され、滅びの子、罪の奴隷から神様のことされる、あり得ない契約が御子イエス様にあって今や結ばれたのだから。
私たちは十字架を何かのアクセサリーや何かと考えてはいけない。これは神様から示された契約の記。あなたへの愛の約束。事実。神様がいる、で終わらず、救われたからあとは好きに生きるわ~ではなく、私たちはこの神様の招き、尽きる事のない神様の契約の愛、この中により頼み生きようではありませんか。この救いを受け取り、真の愛の中、歩もうではありませんか。神様は今日もあなたが帰って来ることを待っておられる。ご自身の愛を、あなたへの御心を、ご計画を持ちながら。御子イエス様によって買い戻すほどに愛されたその愛によって。