ー触れ、起き上がらせ、共にー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」

マタイによる福音書814-15

 

イエス様は本来ありえない、罪人と神様との関係を和解させるためにこられた。和解して終わらず共に生きるために。この恵みを私たちは忘れてはいけない。

 

さて、ある時神の御子たるイエス様が人となって生まれてこられ、人々の間に住まわれていたとき、12弟子の側近の一人ペテロの姑が熱病によって苦しんでいるのでした。ちょっと熱があるとかそういレベルではないのが↑を読んでもわかりますね。まあもちろんイエス様は、単なる風邪であったとしても、心配してくださる方です。だって、私たちの髪の数さえ知っておられるくらい私たちに関心をいつも持っておられる方ですからね(*^_^*)ただ、今回は下手をすればこのままいけば死に至る病だったそうです。

 

そこでイエス様は、この姑の手に触られ、姑は癒されました。それはすごいですね~で終わりそうな話なのですが、実はこの出来事は単純なそんな話ではないのです。というのも、実は当時のユダヤ人の社会では男性が女性の手に直接触れたりすることは御法度のことなのです。あってはいけない話。しかしイエス様の愛にはそんなことは関係ない。神様の愛するこの方をどうして死したままでおられようか、と癒されたのです。

 

神様は宗教ではないのです。愛です。宗教的関係ではない。お金をいくら払ったら癒すとか、土俵の話が今年ありましたが、それはルールに反するから、としない。神様は全ての人にその愛を注ぎたいのです。私たちが気づかないだけで。まあ当時の人たちは、そうした宗教的な物に支配され、神様の本質的な愛を失ってしまっていたんですが。

 

ちょっと話はそれましたが、それでもやはり私たちはこう、神様のイメージを自分勝手に作り上げて、神様はこういう方だから、どうせ答えてくれないでしょう?どうせ何もしてくれない。だから私がこんなに苦しいんだ、とか、当時の宗教家とは別な形であっても勝手に神様との間に自分で壁を造ってしまう。

 

でも神様は、私たちと本来元々あるべき関係だった、本来の親子関係の中に私たちを招きたいのです。神様は、罪人の私たちなど愛する必要なんてない。でも神様は、それでもそんな人間的な壁など打ち壊して、触れてはいけない相手にさえ、汚れた罪人にさえ触れて、そして立ち上がらせてくださるのです。そのために、何の罪もないのに、しかも神の御子であるにもかかわらず、神であることを捨てられないとは考えず、人となって生まれてこられ、その間に生きられた。その御手を伸ばし続けた。どんなに裏切られようとも、ののしられようとも、愛する事を辞めず、私たちの罪を身代りに背負われ罰せられているのに、なお罵る彼らのために、何とこともあろうに、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と赦しを懇願された。そこまでしてでも、十字架で身代りに罰せられてでもあなたを死の底から、罪の奴隷から、神様と断絶され死んだところから引き上げ、起き上がらせたのです。神様の子として。

 

イエス様はペテロの姑を癒して終わらずその家にとどまっていました。癒すだけだったらさっさと去ればいい。でも、姑がイエス様にもてなすことができるほどの関係になっていた。姑の人生の中にイエス様が住まわれたのです。あり得ない関係の中に。そしてそれは十字架によって実現した。

 

イエス様はあなたの内に住まい、癒し、起き上がらせ、そのあなたの内にご自身の愛をご栄光を現されるためにすぐ近くに来られたのです。あなたはこのイエス様の訪問の前に何を思うだろうか?何を願うだろうか?そして十字架によってあなたの死の病が癒された今、どう生きるだろうか?難しい宗教行為などいらない、イエス様が願うのはあなたが神様に帰り、生きる事。主と共に生きることに他ならない。イエス様は今日もあなたがイエス様をお招きすることを待っておられる。