ー何も残っていなくてもー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エホヤキンは十八歳で王となり、エルサレムで三か月間、王であった。彼の母の名はネフシュタといい、エルサレムの出のエルナタンの娘であった。彼は、すべて先祖たちがしたとおり、主の目の前に悪を行なった。そのころ、バビロンの王ネブカデネザルの家来たちがエルサレムに攻め上り、町は包囲された。バビロンの王ネブカデネザルが町にやって来たときに、家来たちは町を包囲していた。ユダの王エホヤキンは、その母や、家来たちや、高官たち、宦官たちといっしょにバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は彼を捕虜にした。これはネブカデネザルの治世の第八年であった。彼は主の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが造った主の本堂の中のすべての金の用具を断ち切った。主の告げられたとおりであった。彼はエルサレムのすべて、つまり、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や、鍛冶屋もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ連れて行った。バビロンの王は、すべての兵士七千人、職人と鍛冶屋千人、勇敢な戦士を、すべて、捕囚としてバビロンへ連れて行った。」

Ⅱ列王記248-16

 

神様は私たちを待っておられる方である。もう何もない、と思う時、私たちはもう一度思い出そう。他の何物が捨てようとも神様がそこにおられるということを。仮に人の目に「貧しい」もの、状況にあろうとも神様という希望は失われる事はない。

 

さて、↑の話はもう本当に絶望的な話。かつて神様に愛され、神様の祝福があふれ流れていたイスラエル王国は見る影もない。王国は分裂し、北イスラエルはアッシリヤに捕囚され、今南ユダ王国はバビロン帝国の危機が彼らに迫っていた。もう捕囚の手はそこに迫っていた。それでもなお、イスラエルの民は神様に帰る事なく、むしろますます、神よりも他の国の方が助けになるだろう、とか、どんどん神様から離れて行った。せっかく伸ばされていた神様の御手も振り払ってしまっていた。神様に変えるチャンスなどいくらでもあっただろうに。

 

こうして何もかも彼らは奪われていった。「主の宮の財宝と王宮の財宝、イスラエルの王ソロモンが造った主の本堂の中のすべての金の用具」、また物だけではなく、「すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や、鍛冶屋もみな、兵士七千人、職人と鍛冶屋千人、勇敢な戦士」すべてが捕らえ移されていった。

 

もう彼らに一体どこに希望があっただろうか。絶望しかなかった。唯一残されていたのは「貧しい民衆」だけ。捕囚しても役に立たないだろうと思われた者しか残されなかった。まあ、反逆の芽を摘むための作戦だったのでしょうけど。客観的にこの状況を想像したらわかるでしょう。これがどれだけ絶望的で、未来もないような話か。当時最強と言われたバビロン帝国が、国のサイズとしては四国程もないほど。どうやって勝つことができるだろう。未来をのぞむことができただろう。

 

神様はでは見捨てられたのか?いや、驚くべきことに神様はご自身の愛をそれでも注がれ続けていた。彼らはこれから捕囚にあっていく。でも、その捕囚地にあって神様は多くの助け手を置いた。神様のメッセージを、あずかり民に伝える預言者や、その国の中枢に何人もイスラエルの民を送られることによって、そこで彼らを通して国を支えさせ、国の中枢に据えられていった者たち。もしくは時代が流れ捕囚後の残された民にも王妃が立てられたり。その苦難の地に神様はなおその御手を伸ばされ、希望を示されていた。「捕囚から70年の地に開放し連れ戻す」という約束を空約束にはせず、また、その時まで何もしないわけではなく具体的にその御手は伸ばされていた。彼らがそこに信頼するかどうかの話だったのです。

 

そして捕囚から70年後に解放された時、あの貧しい者たちしか残されていなかった地に、イスラエルの民は帰還し、国となった。あの未来のない状況の上に神様が新しい時代が、国が訪れたのでした。人間の知恵や計画によってどんなにイスラエルを打ち砕こうとしても、バビロンは打ち砕かれ、神様の御心がなった。

 

私たちは忘れてはいけないのは、神様は口だけ希望を語られる神様ではない。具体的にその希望を現実に変えられるのです。貧しい、もう何もできない、そんな状況の上に神様がその御手を伸ばされる時、神様に希望を抱く時、神様はその上にご自身のご計画を、御心を、その希望を具体的な形で建てあえて下さり、新しい状況、いや新しいあなたへと作り変えて下さるのです。かの捕捕囚時にその御手を伸ばし具体的に行動されたように。

 

いや、それだけではない、私たちの崩壊した、罪によって崩れ去った神様の形、いのちを失い、神様の本来持っておられた私たちへの祝福を失って罪の奴隷となってしまい、滅びゆくしかない、未来のない私たちの絶望を希望に変えるため、死をいのちに変えるため、御子イエス様を遣わしてくださった。具体的に私たちの失望、絶望を希望に変えるだけではなく、私たちの罪の身代わりに十字架に架かられ、身代わりに罰せられ、身代わりに死なれ、なお復活されたことによって、私たちをその死の奴隷、墓場から、何も残されていないその地から引き上げて下さる。新しいあなた、神様の子としてくださったのです。イエス様を自分の罪のために身代わりに死なれ、またよみがえられた救い主として信じ受け入れるなら。

 

イスラエルが神様にあってバビロンを打ち砕き、回復し、帰って新しい国が建てられたように、私たちは御子イエス様が私たちの内においでくださり、私たちの罪を、裁きを打ち砕かれ神様の元へと帰らせていただき、ご自身の子とされた今、神様があなたの内にその御心を、新しい本来あるべきあなたを建て上げて下さっているのです。何もない?いいえ、神様がおられる。

 

どうか目の前の貧しい状況に絶望せず、今日、神様にあって希望を持とう。あなたはもう神様のもの、子とされたのだから。神様の希望は語られて終わり、口先で終わるものではない、具体的に御子イエス様をあなたのために惜しまず与えるほどに愛され、行動に移され、絶望を希望に、死をいのちに帰る神様であることを忘れてはいけない。

 

神様は私たちを待っておられる方である。もう何もない、と思う時、私たちはもう一度思い出そう。他の何物が捨てようとも神様がそこにおられるということを。仮に人の目に「貧しい」もの、状況にあろうとも神様という希望は失われる事はない。御子イエス様にありて。今日、このイエス様にあって希望を抱き、主と共に歩もうではありませんか。