ーあなたの王はだれ?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、彼に言った。『今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。』彼らが、『私たちをさばく王を与えてください』と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに仰せられた。『この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。』そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。そして言った。『あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる…あなたがたは王の奴隷となる。その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。』それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。『いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。』」

Ⅰサムエル記84-20

 

私たちの王は誰だろうか?イエス様を除いては他にいない。この世の王は、あなたが自分で気にいって王としているものはあなたを正しく治める事もいのちをもたらす事も出来ない。しかしイエス様はあなたを正しく治める。支配ではなく。愛によって。

 

さて、↑の話は紀元前の出来事で、イスラエルが国となるきっかけとなった会談。この当時、さばきつかさと呼ばれる、神様から御心を求め民に伝える人がその国を導いていました。神様の御心を求め、それにしたがって。しかし、彼らは神様が治める、その御心を現し様々に養い導かれているのにそれを良しとしなかった。だから、彼らはサムエルに、「さばく=治める王」を求めたのでした。我々に必要なのは神の御心ではなく、人間のリーダー、自分たちの都合の良い結果を与える王だ、と。

 

彼らは周りの国々を見て、自分たちの好きなように生きて、国を自分たちの思うように治めているのに憧れていたか、ないし神様の御心を求めてその通りにするなど時代遅れと考えていたのかもしれない。〇〇のことは〇〇に任せた方が良い、と。ないし周りの国々が強いのは、神様の御心に従わなくても自分たちで決めた方が速いし、うまくいくのでは、と考えたのか。神様が生きておられ、これまでも彼らを治めてきた、多くの敵を打ち砕いてきてくださった、救ってきてくださったそのことを忘れ、そんな事よりも、今目の前の現実は、こうだから、とサムエルではなく神様を退けたのです。

 

この出来事が自分と一体何の関係があるんだ?と思うかもしれない。確かに私たちは自分たちでイスラエルの王を決めるわけではない。でも、私たちは自分自身の王、自分を治める、導く存在は決めることができる、極端な話。最後のイスラエルの民の台詞にあるような、「私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれる」王を。

 

それらの王は、お金?仕事?異性?名声?思想?カリスマ性を持った誰か?でもそれらは神様の御心に勝ることができるだろうか?お金があれば確かに生きて行けるかもしれないけど、神様の御心から、ご愛から離れてどうして生きて行けるだろうか?神様の御心が本当に役に立たないとお思いだろうか?

 

サムエルは↑のように警告しています。神様の御心を離れた王は権利をもってあなたを支配するようになる、と。↑のサムエルの警告する通りにはあなたを支配しないかもしれない。しかし、神様の御心から離れた人と同じように生きようとしたって、そこにいるのは同じように神様の御心から離れた人。彼らが自分中心に生きれば、当然あなたに対して権利を行使してくる。お金だったら確かに利益はもたらすかもしれないけど、家族との時間や健康だって支配してくる。

 

事実イスラエルでは、数世代先の王が、自分の利益中心の王の世代になった時、国のモラルは滅茶苦茶になり、↑の預言の通りとなり、繁栄はあっという間に去り、ついには王国分裂→捕囚となっていった。それに、今の世の中を見回せば自分勝手に国を治めたり、生活をしている中に何が起こっているのか、明白だろう。

 

しかし、神様はあなたのために戦わないだろうか?あなたに本当の繁栄、いのちを、勝利をもたらさないだろうか?いや、戦われる。与えられる。何を?真のいのち、勝利を。神様のくださる最高のものを。今目の前の問題にこの瞬間戦っていないように見えて神様はいつでも戦い、また備えて下さるのです。あなたが気づかないだけで神様は今日もあなたのために全ての良きものを備え与え、また戦われようとしている。それを私たちが退けているだけ。

 

もう一度言いますが、神様は、あなたのために戦われる。この世の王はあなたを奴隷とするが、イエス様は私たちに仕えるために来られた。神様はあなたの首根っこを無理やりひっつかまえて奴隷のように従わせるのではなく、むしろ神の御子であられるのにもかかわらず徹底的に遜られ私たちに仕えられた。あり得ない話でしょ?

 

でも、私たちが神様から離れ、「その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない」と宣告されてもおかしくない、私たちのために。当時の人たち、いや私たちのありとあらゆる悲しみや問題とも戦ってこれらに勝利させてくださった。見ているだけではなく、実際に先頭に立って。これに打ち勝たれた。

 

でもそれだけではない、私たちが永遠に滅びつくされる事のないように、私たちの罪と、サタンと、また私たちのありとあらゆる重荷を身代りに背負われ戦われたのです。その罪の奴隷から、神様の御心の失われ永遠のさばきとも。そのために御子イエス様を十字架に架けて死に渡されてでもこれと闘い打ち勝たれ、復活され、イエス様を救い主として信じる人をこの滅びから救い出され、神様のもとに引き上げて下さった、永遠の罪の奴隷から神様の子へと引き上げて下さったのです。そのイエス様のいのちを持って買い戻されたあなたの内に神様がご計画されている事がどうしてこの世のものに勝ることができるだろう?滅びゆく道が神様の前に勝ることができるだろう?

 

私たちは、このイエス様の愛、御心、御言葉?祈り?そうしたものをないがしろにしていないだろうか?こんなものが何の役に立つだろうか?そんなものは今の時代に何の役に立つ?とか考えやすい。イスラエルの民は、サムエルは年老いた、古い、もっと役に立つ者を、と求めた。しかし、このイエス様にあって勝利された十字架は古今東西関係なく、あなたのために示された、戦われる神様の愛、ご意思そのものです。いのちをもってまで戦われるイエス様の愛を、どうして疑う必要があるだろうか。ここにすべてがあるのです。

 

私たちはもっともっと、あなたのためにいのちを賭してまで戦われ、死から取り戻されいのちを与えられた、神様の元へと、子へと引き上げて下さった神様の偉大なる愛がどれほど偉大で大いなるものなのかを心し、信頼し、歩みたいものです。神様の元にはすべてがある。私たちはイエス様にあってこそ勝利者となる。いや勝利の行列へとくわえていただけるのです。私たちはイエス様を王として迎え、今日も私たちの、あなたの内に神様の御心をなしていただけるよう祈り求めて行こうではありませんか。