ー行動の神様ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。人々は恐れを抱き、『大預言者が私たちのうちに現われた』とか、『神がその民を顧みてくださった』などと言って、神をあがめた。イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。」

ルカによる福音書711-17

 

神様は精神論を説かれたのではない。ご自身の愛を行動に現された。神様は同情して終わる方ではなく、行動に起こされる神様。口先だけのお偉いさんではない、愛を実践される神様である。

 

さて、神の御子たるイエス様が人となって生まれてこられ、私たちの間に住まわれていたときの話。そう、イエス様は天の御座で座って誰か御使いにでも命じて私たちを助けさせるのではなく、具体的に行動に出て、人となって来られたわけなのですが。そんなある日、イエス様とお弟子さんたちが歩いていると、そこに一人息子を亡くしやもめとなった女性をイエス様は見かけました。

 

やもめというのは、当時の社会では、「やもめ」となるということはとても厳しい立場に置かれてしまいます。しかもそのうえ、「ひとり息子」までも失ったわけですから、生きる力や希望がむしり取られるような思いだったでしょう。そこでイエス様は何をされたのか?「そうか、可哀そうだね。これから辛いだろうけどがんばってね」そういったのか?あるお偉いさんとかがどこかを慰問される時にはそんな言葉をかけて終わる。それを聞いて「心が少し落ち着いた気がする」程度にはなるかもしれない。でもイエス様はそんな言葉かけをしなかった。

 

イエス様は「かわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた」。可哀そうに思う、ということばは内臓がよじれるほど苦しみ、という意味です。イエス様にとっては、この女性の苦しみは我がことのように悲しまれたのです。どうして?この女性もまた神様によって造られた大切な子。その人がこのような苦しみの中にいる事を嘆かれた。いやそれだけではない、罪によって入り込んでしまったこの死の問題を、死ななければならなくなってしまった、この罪の問題ゆえに、内臓がひっくり返るほどに悲しまれたのです。そして「泣かなくてもよい」と。泣かなくてもよい状況にわたしがするから、泣く必要はない、この死を私が取り除く、と宣言され、イエス様は彼女の悲しみの問題、息子の死を取り除かれ、生き返らせ、母親の元に返されたのでした。

 

何と驚くべきことだろう。神様にとって死という壁はない。群衆たちは、同情して付き添うことしかできなかった。しかし神様はこれを討ち破られた。同情だけにとどまらずこれに行動を起こされた。人には死はどうしようもない問題。しかし神様はこれを討ち破る力があるのです。

 

少し脱線しますが、律法には「在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物(貧しい者にとって着物は貴重品)を質にとってはならない。・・・・あなたが畑で穀物の刈り入れをしていて、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない」と、やもめやみなしごについて明確な命令を記しています。保護するように、と。ただ残念ながら当時の社会は、これができていなかった。

 

イエス様は言ったからには実行された。実際にこのやもめに対して、同情するだけではなく、具体的に行動に起こされた。でも、それは生活・衣食住の保護だけではなかった。根本的に、イエス様の元に救いがあること、罪の問題を打ち砕かれ、神様と人間の断絶されてしまった関係を、十字架によって和解し、回復させ、罪によって死ななければならないという本当の絶望、死を十字架によって打ち破られたのです。希望を、息子の生き返りだけにとどめずに、神様との和解、神様の保護へと向かわせたのです。この女性の本当の悲しみは十字架によって取り除かれたのです。

 

イエス様は私たちを同情されるだけでは終わらず、人となって精神論を説かれたわけでもなく具体的にその愛を現され、それぞれの必要に答えられた。イエス様は私たちの具体的な問題にも関心を持っておられる。でもイエス様は、一部の問題からの保護だけではなく、その十字架によって神様と和解に導き、神様の子として保護する所にあった。そしてそれほどまでに愛されたほどの、神様の御心を、ご計画を、あなたの内に現されるのです。あなたはキリストにあって死者の行列に加わるのではない、勝利の行列に加えられるのです。

 

この母親はずっとやもめ、相当若い頃から苦しんでいたようです。しかしそのやもめの元に救いの日が来たように、イエス様が訪れられたように、あなたの内にイエス様は光を輝かせ救うために来られた。なら私たちはどう歩もう。群衆たちは↑のように告白しましたが、あなたはこの救い主をだれと告白し歩むだろうか?イエス様があなたの内にその御心を現される時に起こる力は、その福音の力は、↑のようなその地域一帯だけではない、全世界に及ぶほどの大いなる神様の栄光が現されるのです。私たちはイエス様を口先だけではなく、心から主としてお迎えし、歩もうではありませんか。