ーいつまで?永遠にー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。また私の敵が、『おれは彼に勝った』と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」

詩篇131-6

 

神様の恵みはとこしえに続く。それこそ、1,000代にまで及ぶ。神様はこの恵みに私たちを招かれている。とこしえに代わることのない恵みに。

 

さて、↑の詩をよまれたら、たぶんほとんどの人が、わかるわかる、と思われるかもしれない。そんな経験をたぶんほとんどの人がされている、ないし通られているかと思います。いつまでも悲しみや苦しみの中にあってどうにもならない、にっちもさっちもいかない状況。いつになったらこの苦しみの状況が終わるのか?と。

 

別に私はそんな中を通ってそう思っている人を不信仰だのなんだの、というつもりはないですし、私もそんな中を通ってきました。それに↑の歌を歌ったダビデという人、イスラエルの2代目の王。彼は聖書の中に登場する本当に優れた信仰者の一人(まあかなり問題あることをやらかしたこともありますが)。↑のような詩や信仰の手本ともいうべき姿が多く残されています。

 

じゃあ彼はいつも平穏無事だったのかと言われたらそうではない。彼はせっかく王宮に召しいれられ、王女と結婚するも、彼の活躍をねたんだ王にいのちを狙われ、国を追われる事もあれば、子どもにクーデターを起こされ、またしても国を追われた、なんてこともあった。何度いのちの危険に迫られたことだろう。ある意味彼は正直だった。そんな危機的状況の中にあって、正直に↑のように残したのでした。

 

別に彼はこの詩を恥じてはいなかった。こんな女々しい、不信仰に見える詩を残したら、恥だ、と焼き払うこともしなかった。むしろ彼は↑の詩にあるように「神様の救い」「神様の恵み」に注目していた。そんな苦労、絶望的な状況の中にあって、人は神などいない、というかもしれない、しかし神様の御手は私たちが見えないところにある、あった、それを彼は体験し続けた。だからこそ、彼はその神様の御業を、時間が立ったら忘れて、この自分の女々しさを焼き払うのではなく、神様の恵みのわざを書き残したのです。

 

確かに私たちの世の中には様々な問題はあります。イエス様も、信仰を持ったからと言っていつも平穏無事で何にも問題はなくなる、とは一言も言っていない、むしろ迫害も患難もある、という。罪の世ゆえに。ないしキリストに敵対する者やサタンゆえに。

 

サタンはよく現実を見せて囁きます。ほら、神は何もしないじゃないか?神などいらないだろう?と神様から私たちを引き離す。祈ったって無駄、と。でも、神様は私たちのことを忘れない。見捨ててはいない。神様は、いつでもご自身の御手を私たちに差し伸べ、ご自身を現されたいのです。

 

かつて、エジプトの奴隷状態から救い出した後、神様はイスラエルの民にこのようにおっしゃっていた。「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」と。別に救われたからってイスラエルの民も平穏無事だったわけではなく、様々な戦いはあった。でも、神様は神様を愛し求める者には恵みを1,000代にまで及び現される、つまり継続した恵みを注がれる、と約束されている。いやそれだけではない、その御手は、その恵みから引き離そうとする者に対して報いる、つまり、あなたを囲う敵に対しても神様はその目を注がれ、あなたを守られる、ということなのです。

 

事実、エジプトから出る時ご自身も下られ戦われ、荒野でも先頭に立ちながら進まれ、戦いの中にあっても彼らの内に働かれて彼らよりも強い的にも勝利を収めさせてくださった。何も水も食料もないところに水を湧き上がらせ、食物を運び、健康も守られ(まあ神様に逆らった人はともかく)、40年の旅路の間、道も今のように整えられていない荒地を旅していたにもかかわらず擦り切れる事がないように守られた。

 

話しは戻して、私たちはそれでもなお「神様に注目する」「神様の救いを待ち望む」「神様のその救われた日々を喜ぶ」、これが大事なのです。神様はご自身を求める人たちを喜ばれます。それがどんな罪人であっても、社会から見捨てられているような人であっても、イエス様は喜んで受け入れました。売国奴と言われているような人であっても、死刑囚であっても。ご自身の元に来られる人を、あなたを喜んで受け入れ、ご自身の愛を、その御手を差し伸べて下さる。私たちは目の前の状況に無理無理、と考えるけど、イエス様はそこにおられるのです。イエス様は天の御座に居座って私たちを救おうとされたのではない、この地上に、私たちのところに、神であられるのにそのありようを捨ててでも私たちのところに来られ、救いに来られたのです。

 

いや、それだけではない。この継続性へ。神様とのたゆまない継続した、断続したいのちある交わり、関係の中に入れるため、罪の奴隷、神様を捨て神様から離れて行った私たちを探しに来られただけではなく、一時的な問題を解決してはいバイバイ、と見捨てるのでもなく、私たちを神様の元に引き上げるために、私たちの罪の代価を身代りに支払われるため、十字架で身代りに死なれた。そして復活と共に、イエス様を自分の罪のために死なれ、またよみがえられた救い主として信じる人を共にその絶望の墓から引き上げて下さった、くださるのです。もはやこの関係の中ではサタンも、世もあなたに高笑いし、打ち勝つ事などできません。すでに十字架にあって勝利したのです。病も、剣も何もかもあなたを神様から引き離す事などできないのです。主の御手からあなたを引き離す事などできないのです。最後はこれらの物はサタンも含め永遠に裁かれるのです。十字架にあって神様にあなたは「お忘れになる」どころではなく永久に「覚えられている」のです。

 

ダビデは、「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます」と歌いました。救いとは1度の問題解決を喜ぶことではない。神様がイエス様にあってあなたを贖われたこの救いの関係を喜ぶ、ということです。神様の子とされたその恵みは1,000代、いやとこしえに尽きる事はない。どんな場面にあっても今やイエス様はあなたと共におられ、聖霊様を通してあなたにご自身の栄光を現され、助け導かれる。後には栄光の内に、天においてキリストの花嫁として私たちは、私は、あなたは迎え入れられるのです。

 

神様は今日もあなたをこの、人の手による救いではなく、神様にある永遠の救い、恵みの中にあなたを招かれている。今日、主の前に進み出よう。何があっても主が共におられ、御子イエス様にあってご自身の御心を、ご計画をあなたの内に現してくださることを喜び歩もうではありませんか。高らかに喜びうたいながら。