「あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。見よ。私は、ヨルダン川から日の入るほうの大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が断ち滅ぼしたすべての国々とを、相続地として、くじによってあなたがたの部族に分け与えた。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、主があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行ない、そこから右にも左にもそれてはならない。あなたがたは、これらの国民、あなたがたの中に残っているこれらの国民と交わってはならない。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがらなければならない。」
ヨシュア記23章3-8節
神様のみことばは、あなたに語れることばは、神様が保障される。神様があなたに幸せを願うからこそ語られることば。その御言葉の約束を実現させるのは私たち人間ではなく、神様であるということを忘れてはいけない。
さて、↑のことばは、ヨシュアという男性がいよいよ天に召され神様の元に帰って行こうとする時に、残されるイスラエルの民のために遺言として残したことばの一部です。というよりもこれは長い告別メッセージの中の本質とも言えますが。
今ヨシュアが語っている相手のイスラエルの民は、これまで多くの苦労の中を通ってきました。今ここに残されている民のほとんどは生まれた時からすでにエジプトの奴隷の中で生きてきました。かつて神様がイスラエルの民を祝福し、その中から、エジプトに総理大臣を起こし、エジプトもイスラエルも救われたこと、また彼らのために乳と蜜の流れる地に神様が必ず連れ戻してくださるという約束は耳にしながらも、神様がどれだけ彼らを愛し祝福してくださっているのかをほとんどの人たちは知らなかった。本当に神様は彼らを愛しているのか?不安だった。
だからその道中、まだ彼らは若かったと言えども何度も不信仰に走った。それでも神様は彼らを導き続けていたのでした。エジプトから救い出されたその御業を見ても、神様が直接その御手を伸ばされ救い出され、その道中を先頭を切って進まれ導かれたこと、そしてこれまでも約束の地についてからも多くの闘いの中で、絶対に勝てない、神様でさえ、イスラエルの民より彼らの方が強い、というほどに強い相手に、神様が不思議な業を通して勝たせてくださったのでした。そう、彼らは目の前でそれを目撃してきたのです。
だから、ヨシュアはこう伝えた。「あなたがたは、あなたがたの神、主が、あなたがたのために、これらすべての国々に行なったことをことごとく見た」と。
さて、この投稿を読んでくださっている方はどこに注目します?この言葉の。実はこれは非常に大事な話なんです。これのどこに注目するかが。実は大事なのは「主が」成されたことを見た、これが大事なんです。奇跡を目撃したじゃないか、ではないんです。「神様が」あなたのためになされてきたでしょう?「奇跡」を?違う。神様がエジプトを出るときから24時間365日共にいたことを、養い続けてきてくださったことを見たでしょう?とヨシュアはいうのです。この神様が、あなたに御心をもって与えた土地の中にあっても、いつも共にいてくださる、だからこの方が語られる事に信頼しよう、と。
私たちは奇跡が起こったら、ああ、神様は私を愛している、祝福してくださっている、と勘違いする。じゃあ何もない平常時は?「自分にとって」奇跡と思えることがない時は?神様はあなたの事を放置しているとでもいうのでしょうか?違いますよね。
もちろん奇跡をあなたの内に起こされる事は大いに感謝な事。でも奇跡を起こされる事があなたへの愛の記なのではない。むしろ奇跡は私たちを神様の元に引き寄せる、私たちが神様に引き戻されるために、不信仰な人を神様に引き戻すために行われる事だってある。むしろ、本来罪によって神様から離れ、神様を捨て、自らを神とするような罪人の、見捨てられてもおかしくない私たちを神様が日々養ってくださっている事、神様が共におられるその素晴らしい恵みを忘れてはいないだろうか?
神様は、ヨシュアたちイスラエルの民を、あの暗闇のどん底、エジプトの奴隷から贖い出し救い出され、ご自分の民とされたように、私たちを見捨てず、神様はご自分の御子イエス様を私たちに遣わされた。そして多くの奇跡をおこなわれましたが、それだけが目的ではなかった。実は当時の彼らも、奇跡ばかり求めて神様を求めなかった。でもイエス様の目的は、私たちの罪を赦し永遠のいのちを与え、神様の子として迎え入れる事にあった。だから、わたしたちの負うべき罪の代価、裁き、死をご自分が身代わりに追われ十字架にかかってまであなたを取り戻された。よみがえられることによって、イエス様を自分の罪のための救い主として信じ受け入れる時、私たちもまたイエス様にあって新しいものとされる。その御心によって土地、新しい神様の子として生涯が始まるのです。この十字架の愛以上の奇跡はどこにあるだろうか?いやない。
私たちはこの大いなる奇跡、愛を、受けるに値しない私たちに起こされた大いなる御業を成されたイエス様を覚えよう。自分に何か利益をもたらす何かを追い求めるのではない。あなたのために御子イエス様のいのちという代価を身代りに支払わせてでも、あなたを取り戻された神様を追い求めよう。従うように、と↑にありますが、神様は、御子イエス様をあなたのために惜しまず与えるほど愛されているからこそ、その言葉をあなたに語られる。あなたを幸せにしたいからこそあなたを利益、というかイエス様にある愛ゆえの御心に導かれるから。御子イエス様にあってその愛ゆえの御心という最大の利益があなたの内に注がれるから。
私たちはこの大いなる奇跡、愛を、受けるに値しない私たちに起こされた大いなる御業を成されたイエス様を覚えよう。自分に何か利益をもたらす何かを追い求めるのではない。あなたのために御子イエス様のいのちという代価を身代りに支払わせてでも、あなたを取り戻された神様を追い求めよう。従うように、と↑にありますが、神様は、御子イエス様をあなたのために惜しまず与えるほど愛されているからこそ、その言葉をあなたに語られる。あなたを幸せにしたいからこそあなたを利益、というかイエス様にある愛ゆえの御心に導かれるから。ただただ私たちは神様に寄りすがり歩もうではありませんか。
