ー神様の前に敵対しないー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「しかし、私たちの場合は、主が私たちの神である。私たちはこの方を捨てなかった。また、アロンの子らである祭司たちが主に仕えており、レビ人が仕事をしている。彼らは朝ごとに夕ごとに全焼のいけにえを主にささげ、かおりの高い香をたき、並べ供えたパンを純金の机の上に整え、金の燭台とその上のともしび皿には、夕ごとに火をともしている。私たちは、私たちの神、主の戒めを守っている。それに反し、あなたがたはこの方を捨て去った。見よ。神は私たちとともにいて、かしらとなっておられる。また、神の祭司たちも私たちの側におり、合図のラッパを手にして、あなたがたに対し進撃の合図を吹き鳴らそうとしている。イスラエル人よ。あなたがたの父祖の神、主と戦ってはならない。とうてい勝ち目はないからである。」Ⅱ歴代誌1312

 

私たちは神様に対して敵対しようとしても決して神様に勝つ事などできない。勝ち目はない。どんなに神様の御心と離れたところに喜びを求めようともそれは神様の前には決して勝ることはできない。神様のあなたへの御心は愛から来る。私たちはこの方に信頼し歩みたい。

 

さて、↑の話は昔、イスラエル王国が来た王国と南王国にわかれ、分裂した辺りの時代の話。ソロモンの罪によってイスラエルの分裂が決まった。神様は北の一人の男をたて、ソロモンの子の王から分裂させ、12部族の内の10部族を北王国に与えるのでした。まあそうして南イスラエルを悔い改めに導きたかったのかな?と思いつつ。しかし、残念ながら北イスラエルの王ヤロブアムは、これを自らの力で勝ち取ったと高ぶったのか、もしくは神殿は南ユダ王国にあったので、人々がそっちに流れていくことを恐れ、自分の権力を高め、極論自らを神のようにし、評判を集めようとするのでした。彼らは神様によって一つの王国・北イスラエル王国が建てられたにもかかわらず、神様に敵対してしまった。神様のその御目がせっかく注がれているのにもかかわらず、その神様の御思いから離れ、敵対する道を選ぶのでした。そして南ユダを討ちに出るのでした。

 

その時の様子が、その前の箇所にこう記されています。「彼のもとに、ごろつき、よこしまな者たちが集まり、ソロモンの子レハブアムより優勢となった。それに、レハブアム(その時の、分裂のきっかけを作った、神様に逆らった南ユダ王国の王の名前)は若くて、おくびょうであり、彼らに対抗して自分の力を増し加えることがなかった。そこで今、あなたがたは、ダビデの子らの支配下にある主の王国に敵対して、力を増し加えようとしており、また、あなたがたはおびただしい群れをなしており、ヤロブアムが造ってあなたがたのために神とした金の子牛もあなたがたとともにある。」

 

彼らは神様などいなくてもいい、と神様を捨て、こともあろうに兄弟の国である南ユダを責め取ろうとした。神様が与えた領分に満足しなかった。神様が与えるものに私は満足しない、と。

 

しかし最初は神様に逆らっていた南ユダ王国の王、アビヤは神様の前に悔い改めたのか、↑のように告白するのでした。神様から離れて期待しているところには何の恵みもないことを知った。喜びもないことを知った。だから彼は神様の前に悔い改める決断をした。神様を捨てるのではなく、神様の前に自らの罪を明け渡し、罪の自分を捨てる決断をし神様を真の神様として受け入れた。私たちには天地万物を造られた神様を信頼しているんだ、共にいるんだ、頭なんだ。その前にどうしてあなたがたは敵対できるだろうか?と訴えたのです。

 

結果。それでも神様に逆らい続けた、力もあり、神様に来たイスラエルを任されたにもかかわらず逆らい続け神様を捨てた彼らは敗北し、ヤロブアムは打たれ、その後も北イスラエルは徹底的に神様から離れ、祝福を失って行くのでした。

 

南ユダは神様の恩寵に与る資格なんてない。列王記という別の箇所では彼について「彼はその父が先に行ったもろもろの罪をおこない、その心は父ダビデの心のようにその神、主に対して全く真実ではなかった」とこき下ろされるほどひどかった。にもかかわらず、神様は「悔い改めた」アビヤを見捨てず、その恩寵を注がれたのでした。

 

神様に敵対する者とは誰か?それは神様を神様としない罪人の私たち一人一人。というよりも、神様の目から見て私たちは神様の敵対者だった。南ユダのように神様から離れた。北イスラエルのようにせっかくの神様の恩寵、愛がそそれがたにもかかわらず神様をすぐ自分の都合に合わなければ捨て、合う別な操り人形的神を求める。ないし、自分の欲しい物を与えない神などいらない、と他の神を求める。こんな私たちがどうして神様の味方です、なんて言えるだろうか?

 

しかし神様はその敵意を十字架で滅ぼす決断をされた。ご自分の御子イエス様を十字架に身代りに架けられ、その敵意をイエス様にあって向け、身代わりに死なせ、罰せられた。南ユダを見捨てられなかった神様が彼らを見捨てなかったように、私たちをも滅びゆく事が我慢できず、何の罪もないイエス様を身代りに罰することにされたのです。ちなみに北イスラエルは?と思われた方、彼らにも悔い改めのチャンスは何度もあった、預言者を通して悔い改めにも導こうとずっとされていたんですよ?その御目は神様は向けられていた。神様は願わくばすべての人が悔い改め神様に帰ってほしいのです。

 

それゆえにイエス様を身代りに罰することによって、ご自身の愛をこの十字架に示されたのです。南ユダのように、イエス様の前に悔い改めるとき、神様を神様とするとき、私たちは神様の神様の味方、というよりも神様の子とされるのです。何という恵みでしょう。

 

ここまでの愛を示されてまで、御子イエス様のいのちで私たちの罪の代価を身代りに支払われてまであなたを買い戻され、ご自身の元に引き寄せられた今、どうして私たちは神様の前に敵対することができるだろう?する必要があるだろう?私たちは主の前に帰ろう。また、神様がイエス様をもってあなたを買い戻されたその御心の前に敵対する、疑い、別な道を探すのをやめ、ただ神様のなされるご計画に従おう。

 

私たちは神様に対して敵対しようとしても決して神様に勝つ事などできない。勝ち目はない。どんなに神様の御心と離れたところに喜びを求めようともそれは神様の前には決して勝ることはできない。神様のあなたへの御心は愛から来る。私たちはこの方に信頼し歩みたい。ただ主をあなたのリーダーとして迎え従い歩もう。