ー塩気ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」

マタイによる福音書513

 

私たちはイエス様からいのちをいただき始めて生きた者となる。そしていのちなるイエス様を通してそのいのちが溢れ広がる。

 

さて、神の御子たるイエス様が今から約2000年ほど前に人となって生まれてこられ(まあもともと天地万物が創造される前から存在しておられましたが、人となって来られたのが、という意味で)、私たちの間に住まわれ、また一人ひとりを訪れながら、様々なことを行われました。神の御子だから奇跡という部分に多くの人は注目する。でも、イエス様が来られた目的は実は何か奇跡を見せてすごい~と言わせるためではない。それだったら、旧約時代のように時々来られて何か助ければいいだけ。わざわざ神の御子であられるのにそれを捨てられないとは考えずに人となってくる理由なんかない。

 

もしくは、何か私たちの知恵的な、何か問題を解決するための方法を教える、そのために来られたわけでもない。それなら、同じく旧約時代、イエス様が来られる前に預言者たちを通して語られたように、誰か優れた宗教家でも通して語ればいい。でもそうではなかった。イエス様が来られたのは私たちが神様の恵みを知り、また悔い改め、永遠のいのち、真のいのちを得るために、その救いを実現するために来られたのでした。

 

多くの人たちは奇跡やそういった話には注目する。私たち人間もほとんどそう。そういうことをできる神、ないし優れた相手を求める。クリスチャンでも、奇跡には注目するけど、肝心な部分に注目しない人も多いのですが。

 

そんな当時の人たちに、また私たちにイエス様は、↑のように語られたのです。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです」と。

 

この話は、クリスチャンとして影響ある人となりましょう~という説明が多くの場で語られる。別にそれ自体は間違っていない。そういう話はぜひ他の人たちからいくらでも聞けるので聴いてみてください。でも、実はもう一つ大事な、本質的なメッセージがあるのです。それは、私たち自身が塩気を得なければ塩たりえないのです。というか、この部分が抜けるなら、私たちの塩気などたかが知れているので、それがいかにどうにもならないものであるかを知るでしょう。

 

ちなみに、塩は食べ物に味付けをするだけでなく、腐敗を防ぐ役割もあります。そう、私たち自身が腐っていくのを伏せぐ、いのちあるものとなるためには、外に投げ出されてしまうようなどうしようもない状態から、本当に命あるもの、生きた者となるには、誰かから塩気をいただかなければいけないのです。塩気を失う、何によって塩気をつける?それは私たちの救い主イエス様に他ならない。

 

何かの思想、偽の神々、努力、そうしたものではない。もしくは何か自分に利益をもたらすだけのものでもない。ないし、奇跡でもない。凄い奇跡があったら信じる?じゃあなかったら信じない?奇跡が起こったらいのちを得るけど、なかったらそれは役立たずの存在なのか?違う。私たちはその奇跡をなされる方、御子イエス様「ご自身」から私たちは本当のいのち、塩気をいただくのです。私たちはイエス様に繋がっているから生きた者となる。イエス様と共に生きるからこそ、それがどんなきっつい状況の中にあっても塩気を保ち生きた者となることができる。そのイエス様を通して神様の御心があなたの内に現されるから。

 

そう、私たちのこの失われてしまった、塩気を失い外に捨て行かれるべき存在だった、このいのちという塩気を失ってしまった今、わたしたちは神様から見捨てられなければならなかった。しかしならばと、イエス様ご自身が私たちの罪を身代りに背負われ十字架に架かられ、死なれる事によって、私たちの失われるべき罪、罰、死を身代りに支払われた。そのいのちによって、その十字架によるそのイエス様の血潮によって、私たちは塩気を、いのちを得るのです。イエス様を自分の罪のための救い主として信じ受け入れるなら、自らの罪の身代わりに死なれ、またよみがえられたことを信じ受け入れるなら、私たちはイエス様と共によみがえらせていただき、新しいものとされる。そしてそのあなたの内にイエス様が塩気・御心を現される。塩気を与えるのです。私の塩気ではない、イエス様の塩気が働かれるのです。イエス様の塩気があるからこそ、私たちは地の塩たりえるのです。いのちあるものとなるのです。

 

私たちはこのイエス様のなされた究極の愛の奇跡、十字架をいつも心に思い、この方に繋がり続けよう。この方からいつも塩気をいただき続けよう。どんな場所であろうと、どんなときであろうと。イエス様ご自身があなたの内にまことのいのち、塩気をつけて下さるから。そこでなされる大いなるみわざに期待しようではありませんか。塩気を与えるのは私でもあなたでもない、あなたのためにあなたの罪の身代わりに十字架でその刑罰を受けられるほどに愛されるイエス様ご自身であることを覚え。