ー誰があなたを支配しているのか?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」 出エジプト記204-6

 

私たちは何者にも「支配させては」いけない。ただ神様があなたの内におられ「治めていただこう」。神様があなたを治める時の恵みは人の測れるものではない大いなる恵みがそこにある。

 

さて、↑のことばは有名な十戒の一部です。まあ、正確には、造「らないだろう」という神様から私たちに向けられた願望未来形で書かれているのですが。その中で、神様は「自分のために」「偶像を造ってはならない(造らないだろう)」と、また、拝んではならない(拝まないだろう)、仕えてはならない(仕えないだろう)と、イスラエルの民に、また私たちに語られた。ちなみに、拝む、という言葉は「ひれ伏す」、という意味のことばだそうです。

 

偶像、というと私たちはもしかしたらぴんと来ないかもしれない。まあ、日本には仏像とかお地蔵さんとか、パワースポットだの八百万の神だの色々いいますが、だからといって、格別私は拝んでいるつもりはない、という人も多いかもしれない。

 

でも実は、これはそれらの物「だけ」を指しているのではない。この偶像ということば、英語だとわかりやすいですがアイドル。そうするとイメージがつきやすいかもしれませんが、自分を喜び楽しませたり、拠り所とするような存在ですよね。そうなってくると、お金や名誉、地位、何だって、形のない偶像=アイドル=偽の神になり得るのです。

 

でもそれの何が問題なの?と思うかもしれない。しかし問題なのは、私たちが何物かを自分のための神とするとき、それに自分が支配されてしまうのです。自分がコントロールしているつもりでいて、実はその偶像にコントロール・支配されてしまう。そんなことはあってはいけない、と神様は訴えるのです。なぜ?それらはあなたに対して責任を持てないし、どんなに拠り所としてもあなたを救うことはできないから、と。あなたを救えるのは、真の神様のほかにいないから。

 

そもそもの話、人が↑のような偶像のようなものを造りだす時、まあ思想や自己啓発的な物もそうですが、その出発点をよく考えると、自分のどうしようもない、のっぴきならない事情に「拝む・ひれ伏す」→屈伏して、別な何かに救いを求め、偶像を自分の内に造りだす。でもそれらは生きてもいないからあなたに応える事はできないし、あなたを救うことはできない。もう一度言いますが、あなたを本当の意味で救うことができるのは、あなたに対して責任を持てるのは真の神様のほかにはいないのです。

 

よく、日本、いや最近世界でも聞く話ですが、神がただひとり?ずいぶん傲慢な神だな~とか言われますし、たくさん神がいて仲良しなんです~なんて宗教もある。でも、神様は、この十戒を語るに当たり、また第1戒でこうおっしゃっていた。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」と。

 

そもそもの話が、神様はただおひとりです。この天地万物を全て造られ、あなたを造られたのは神様です。ただひとりの真の神様にほかなりません。あなたという人の存在を、生涯を保証できるのも、責任を持つことができるのも、この神様のほかにはいません。排他的と言われようが何と言われようが、あなたを救うことができる神様は他にはいないのです。

 

神様は、この話の前に、あなたがエジプトの奴隷であった時に他の誰が助けることができただろうか?大地?海?諸外国の神?エジプトの神?これらは生きてもいないし存在もしない、彼らはあなたの前には何もできなかった、しかし何か良いことをしたわけでもない、ただ彼らを愛するがゆえに神様が救われたじゃないか、と。あの暗いどうしようもない奴隷、どん底のどん底から救い出したのは何かの思想や人間が努力したわけではない、神様ご自身だったではないか、と。

 

この偶像に関る話の中で神様は、ただ禁じるだけではなかった。その前提のあなたを救う神だからこそ、他には神がいないからこそ、そんなものにひれ伏す必要はない、そのあなたののっぴきならない状況から神様は、あのエジプトから救い出された神様が救うのだ。あなたがそれらの偽の神々やサタンの手に支配される事を「妬む」神様なのです。神様を憎む者には神様の報いがある、と。それは罪の影響が広がるということだけではない、同時に神様に敵対しあなたを奪おうとする者に対して報いる、と宣言するのです。

 

神様は、この宣言を御子イエス様によって成就された。私たちが神様を捨て、本来はこの報いを受けなければならなかった。でも、私たちをこの罪の現実から、裁きから、暗闇の中から、あのイスラエルを奴隷として捕らえていたエジプトを打ち砕き、救い出されたように、御子イエス様がその裁きをその身に背負い、私たちの痛みも悲しみも、のっぴきならない罪の問題も、すべての重荷をイエス様が身代りに背負われ十字架に身代りに架かられ、身代わりに死なれる事によってすべてを打ち砕いてくださったのです。そして自分の罪を救ってくださったイエス様を救い主として信じ受け入れる時、あなたは↑の約束の最後の部分、その「恵みは千代にまで及ぶ」ほどのものを受けるのです。そう、数字以上に、継続された神様の養いであり、祝福が、御子イエス様のいのちをかけてまで買い戻されたその愛によるご計画があなたの内に溢れるのです。

 

「造らないだろう」の願望未来の先には神様が救われたのだから、造る必要がない、造る必要がない状況に神様が導く、というメッセージがまさにここに込められているのです。

 

私たちは、目の前の問題に屈服しひれ伏し、それらに、また自分の造りだす思想や救いの手段によって「支配させては」いけない。ただ神様があなたの内におられ「治めていただこう」。神様があなたを治めるときの恵みは人の測れるものではない大いなる恵みがそこにあるから。その保障は御子イエス様の十字架の血よる契約にある。イスラエルにあの救いの日を思い出させたうえで、↑の約束を神様が語られたように、私たちは唯一真の神様の愛の結晶・十字架を仰ぎ見、今日も歩もう。あなたを救う神様は他にはいない。