ー見捨てた?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、アビメレクの後、イスラエルを救うために、イッサカル人、ドドの子プワの息子トラが立ち上がった。彼はエフライムの山地にあるシャミルに住んだ。彼は、二十三年間、イスラエルをさばいて後、死んでシャミルに葬られた。彼の後にギルアデ人ヤイルが立ち上がり、二十二年間、イスラエルをさばいた。彼には三十人の息子がいて、三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていたが、それは今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれ、ギルアデの地にある。ヤイルは死んでカモンに葬られた。またイスラエル人は、主の目の前に重ねて悪を行ない、バアルや、アシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった。主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡された。それで彼らはその年、イスラエル人を打ち砕き、苦しめた。彼らはヨルダン川の向こう側のギルアデにあるエモリ人の地にいたイスラエル人をみな、十八年の間、苦しめた。アモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったとき、イスラエルは非常な苦境に立った。そのとき、イスラエル人は主に叫んで言った。『私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです。』すると、主はイスラエル人に仰せられた。『わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。シドン人、アマレク人、マオン人が、あなたがたをしいたげたが、あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい。』すると、イスラエル人は主に言った。『私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください。』彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。」

士師記101-16

 

神様は無機質で死んだ神ではない、生きておられる神様。だから神様はいつでも私たちに目を向けておられる。私たちは生きてもいない偽りの神々や思想と真の神様を同列に並べるべきではない。ただ一人の神様に目を向けよう。

 

さて↑の出来事はイスラエル王国が建国される前の時代の話。かつてその地域にイスラエルは住んではいましたが、世界的飢饉から救い出すべく神様がひとりのイスラエル人・ヨセフを遣わし、彼らを、またエジプトをも救った後、その彼らの功績を知らない王朝がイスラエルをエジプトで奴隷した事がありました。しかし神様の恵みと憐れみによって彼らは救い出され、今のイスラエルの地域に帰って来、そこに住みついていきました。

 

しかし喉元過ぎれば熱さ忘れる、ではないですが神様から救い出された後は神様を捨て、自分に「目に見える」形で利益をもたらす、自分たちにとって都合よく動く神を求めまことの神様を彼らは捨てたのでした。自分たちをあの暗闇、絶望のどん底から救い出し、さらに先祖たちに約束された地に連れ帰ってくださり、養っていてくださっている事を忘れ。

 

そんなものですから、神様はその御手を引っ込めなすがままにされ、イスラエルは敵国の攻撃にさらされます。そこでイスラエルは救いを求め、そこで神様は思い直し、彼らに助け手・士師と呼ばれるさばき司を起こし、イスラエルを救い出す、そんな歴史の繰り返しが王国建国まで続きました。その中の一時の話が↑の出来事。

 

神様は私たちと、ある一点の関係を願っているわけではないのです。だから、↑の出来事を見ると、その前にイスラエルを助けていた士師の後も(彼らは神ではないので、寿命が来れば死にますから)、次の士師を起こされ彼らに継続的にかかわろうとされた。アビメレクのあとにトラ、ヤイル、と。このように神様は私たちのある都合に応える神ではない、彼らの、私たちの生涯そのものにおいて、「支配ではなく」その内に住まわれ、ご自身の愛からくる御心を彼らの中に、いや私たちの中に起こしたいのです。全生涯にわたって。

 

しかしイスラエルの民はそれを拒んだ。主の前に悪を行った、というのは何やら極悪非道な行為をした、とかそういう意味ではなく、唯一真の神様であり、彼らを救い、また養って守ってくださった、彼らの絶望を見捨てず、身勝手であったにもかかわらずそれでも見捨てず助け手を送り続けている神様をなおいらない、と捨て、こともあろうに生きてもいない、偽りの神々を自分の神としてしまったことに他ならない。彼らはあくまで自分の都合通りになる、自分の「役に立つ」召し使い的な神を欲していた。

 

何と愚かな話。でもこれを私たちはしていないだろうか?クリスチャンでさえ陥る話。神様を神様とせず、自分の「召し使い」的な神を求める。そうしないなら、別な思想や答えをくれるものを求める…

 

それでもピンチになり、イスラエルの民は再び神様に助けを求めるのですが、ここで神様は驚くべきことを言われたのです。「わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。シドン人、アマレク人、マオン人が、あなたがたをしいたげたが、あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい」と。

 

彼らにとってはまだ、神様はそのいくつかある自分の召し使いたちの一人としか見ていなかった。また頼めば助けてくれるんでしょう?と。神様はそんなことは見えていた。だからこのように言った…なんとも冷たい宣告。神様は愛の神様なのにどうして?と思うかもしれない。私もこの箇所を改めて読んで驚愕した。でも、神様はそれでも救いを求め続ける民を見捨てる事などできなかった。「苦しみを見るに忍びなかった」のです。結果神様は、彼らを救う決断をされた。この先の話になりますが、エフタという士師を通して神様は救われるのでした。

 

私たちは神様を侮るのを辞めよう。神様もどうせ困ったときは助けてくれるんでしょう?だったらそれ以外の時は好き勝手にするわ~という姿を神様は悲しまれる。罪の中を出たり入ったり、神様を自分の役に立つ召使かどうかで「利用」する、そんな私たちを神様は悲しまれる。神様はそんなことをしなくてもあなたに目を向けておられる。継続的に、あなたを愛する、大切な子として養い続けたい。試みる必要なんかない。あなたの知らないところで神様は24時間365日途切れることなくあなたを導かれるのだ。にもかかわらず私たちがそれを否定したらなんになるだろう?神様を捨てた者の末路はイスラエルが一時的に見捨てられたように、死に行くしかない。でも神様はそれを忍びなく思われるのです。

 

だから私たちのその死を、ご自分の御子イエス様に身代りに背負わせ身代りに罰せられた。あなたをそのどうしようもない罪から救い出し、ご自身の子として迎え入れ、真の関係に取り戻すべく十字架で罰せられ死なされた。あり得ない話だ。でも神様はあなたを救うためならそこまでもされる。閉ざした扉をこじ開けて、あなたを救いに来られたのです。あなたがイエス様を自分の罪のための救い主として受け入れるならこの扉は閉ざされる事なく永遠に神様との親しい真の親子関係に引き入れられるのです。そしてこの救いの扉はまだ今日も閉ざされていない。終わりの時まで。

 

イスラエルの民は「私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください」と神様に訴えた。本来はあなたの良いと思われる事を何でも、と言われたら滅び去れてもおかしくなかった。でも神様のされた良いと思われる事はあなたへの救い。私たちのための罪の贖いとして御子イエス様を十字架に架けてまで救い出す事。ならばもう私たちは神様を侮るのはやめ、日々「あなたがよいと思われる事を何でも私に・私たちにしてください」と祈り求め、また従おう。神様が閉ざされた扉をこじ開けてでもあなたを取り戻されたのなら何を心配する必要があるだろう?今日、主に帰ろう。主と共に生きよう。主は今日もあなたの帰りを待っておられる。