「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。』そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」
マルコによる福音書10章13-16節
イエス様を信じるというのはシンプルな話。屁理屈を並べる必要はなくただ、イエス様がベストをなすと信じて従う。神様はあなたを立って愛しておられるのだから。
さて、イエス様が今から約2000年ほど前に人となってお生まれになられ、ご自身の足で一人一人を訪れて行き、彼らに神様の愛を余すところなく存分に注がれていきました。社会的に差別されていたり見捨てられていたり、希望を見いだせない人たち、また本当の救いを求める宗教家もいれば、逆もいたり、犯罪者や死刑囚もいた。傍に置いていた側近の12弟子の中にはイエス様を裏切るとわかっていたユダという男まで置かれていた。
何と驚くべきことだろう。後半のイエス様に敵対するような人たちや犯罪者などはそんな愛を受けるに値しないだろう。でもイエス様は彼らが罪を悔い改め神様に帰る事を願ってやまなかったのです。
ある時イエス様は、↑のようにイエス様に近寄ってくる子どもたちを喜んで受け入れた。弟子たちがそれを阻止しようとしたら、かえってその弟子たちを叱られた。当時、子どもたちは人数に数えられないほど低く見られていたから。でもイエス様は全く逆のことをおっしゃられた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」と。
イエス様は子供が大好き。じゃあその子供って何歳まで?10歳?12歳?18歳?20歳?違うんです。子ども、それは神様の造られたすべての民です。神様は私たち一人ひとりを精魂込めて造られた。神様にとっては私たちは子どもなんです。だからイエス様は、この子たちが、私たちがイエス様の元に来られることを喜ばれるのです。イエス様が訪問された人たちを見ればもうそれは明らかでしょう。イエス様は、ご自身の元に頼り、近寄ってくること、戻ってくることを喜ばれるのです。そして喜んであなたの内に神様の御心を、ご愛を注いでくださるのです。
ただ私たちは弟子たちのように、様々な理屈や難しい理屈、世の価値観でそれは無理、イエス様に頼ったって何になる?等と障害物を置いて自分がイエス様に頼る事を自分で妨げる。もしくは他の人たちを、わけのわからない自分の屁理屈で、弟子たちの価値観のような・また当時の宗教家たちのように自分流の神学で人々が神様の御心を求める事から引き離そうとする。
しかし、神様の愛は、私たちの価値観や屁理屈、自分流神学で測れるものではない。科学的にこうだからありえないとか、そういう理屈で神様は測れない。神様の愛は私たちの価値観とは全然違う。本来受けるに値しないような、神様を神様としない、すぐに神様を自分の価値観で測り自分の役に立つか立たないかでいるいらないと切り貼りしたり滅茶苦茶な私たちを、この罪ゆえに滅びゆくしかない私たちのためにさえイエス様は来られた。本来断絶された、と座されてしまったその扉を、壁を打ちこわし、神であられるのに人となって来られ、神であられ罪もないのに、罪にまみれた私たちの罪を身代りに背負い、身代わりに罰せられ、身代わりに死なれた。こんなの理屈では通らない。
イエス様は屁理屈を並べなかった。この人はすぐ裏切るしな~この人は救っても役に立たなそうだしな~とかそんな理屈を並べなかった。そんな神様との壁を打ち破るために十字架に架かられたのです。
ならばどうして私たちの理屈で神様との本来あるべき関係を自ら妨げる必要があるだろう?イエス様はおっしゃられた。「神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」。私たちは難しいことを考えたり、もっと聖くなってからとか、そんなことを考えずにシンプルにイエス様に帰ろう。イエス様のいのちをもっとまで取り戻された関係なのです、神様と私たちの関係は。それに必要のはただ一つイエス様を自分の罪のための救い主として信じ、悔い改め、立ち帰る事、それだけ。
このイエス様の血によって結び直されたこの関係を私たち自らが侮ったり壊したりしてはいけない。ただ、私たちはこの十字架によって結ばれた新しい関係の中、シンプルにイエス様の御心に期待し歩もう。その時、そこは神様の国となる。神様のご統治が、御心があなたの内になる御国が。この関係の中で祝福する、とイエス様が約束なさっているのですから、ただシンプルに信じ委ねよう。あとは神様はあなたの内に御心をなしてくださるから。