「ダビデが言った。『サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。』…そこでダビデ王は人をやり、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。ダビデは言った。『メフィボシェテか。』彼は答えた。『はい、このしもべです。』ダビデは言った。『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。』彼は礼をして言った。『このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。』そこで王はサウルのしもべツィバを呼び寄せて言った。『サウルと、その一家の所有になっていた物をみな、私はあなたの主人の子に与えた。あなたも、あなたの息子たちも、あなたの召使いたちも、彼のために地を耕して、作物を得たなら、それはあなたの主人の子のパン、また食物となる。あなたの主人の子メフィボシェテは、私の食卓で、いつも食事をすることになる。』ツィバには十五人の息子と二十人の召使いがあった。ツィバは王に言った。『王さま。あなたが、このしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。』こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。」
Ⅱサムエル記9章1-11節
神様の愛は一部の人にしか届かないものではない。それは一部の品行方正な人(まあ義人何て神様の前にはどこにもいないのですけどね(^^ゞ)にではない、「宗教行為に一生懸命な人」でもない、求める者すべてに注がれる。願わくば神様の元に帰り、真の愛の中歩んでほしい、とその御手は今日も伸ばされている。
さて、昔々のイスラエルの話。初代の王、サウルが敵国に討たれ(まあ最初は神様にしたがって大変功績は残してはいたのですが、神様などいらないと拒否し始めたあたりからその祝福は離れ、ついには敵の手に、神様に選ばれた王という名誉ある立場でありながら、討たれた。)、2代目の王、ダビデの時代の話。実はこのダビデ王という人は先代の王サウルの時代から徴用されていて、サウルが神様から離れた時点で、神様は次の王としてダビデ、と決めていたのでした。しかしダビデの功績や名声をねたんだサウルは、神様に祝福される姿をねたんだサウルはダビデのいのちを狙い、自分の娘・王女の婿としておきながら、なんといのちを狙い続けていたのです。ダビデも何度も危険な目に合わされました。
そんなダビデですから、普通に考えたら王権をとってかわったら、その復讐に、とその先代の一族を皆殺しに当時の時代はイスラエルに限らずされていたことです。まあ復讐を恐れてする、という習慣だったのかもしれません。しかも、自分のいのちを付け狙い続けていた最悪な王の子孫たちですから。根絶やしにされてもおかしくはなかった。
ところが、なんとダビデ王はこのサウル一族に憐みを示されたのです。実は、そのサウルの息子の一人、すでに戦死しているのですが、ヨナタンという王子はダビデと強いきずなで結ばれていて、ダビデの告白によれば女(男女間)の愛よりもはるかに勝ってすばらしい関係であったと告白するほどに素晴らしい友情で結ばれていました。そしてその友情・愛は驚くべき物でした。このヨナタンという人は、ダビデさえいなければ次の王は自分がなれるわけだから、サウルがダビデを殺そうとしたときに手を貸さなければ自動的に王になれる、でも彼の愛は自分の犠牲を選んだ。ダビデを助ける事、ダビデがいのちを得、本来あるべき姿となれるよう、彼のいのちを命がけで守ったのでした。事実逃がしたことを知った父サウルは、ヨナタンを槍で刺し殺そうとしたくらいでしたし。
そのヨナタンとの契約ゆえに、彼の一族に良くしてほしい、という契約を反故にすることなく、ダビデはサウルの一族、彼の一族に憐みをかけたのです。そして唯一生き残っていたメフィボシェテという人を王宮に、王の食卓に招くのでした。
メフィボシェテ、彼は足が萎え、しかも不毛な地、満足がいかない地と誰しもから呼ばれる地に住んでいた。父サウルの罪を考えたら自業自得だ、と言われても仕方ない。しかし、ダビデは、彼を召しいれたところで役にも立たないだろう、とは思わず、彼はメフィボシェテを王宮に召しいれ、毎日王の食卓に着き、王の息子の一人と同じような存在へと引き上げられたのでした。そう、神様の愛はダビデを通してダビデにこの契約を思い出させ、そして彼へと届いていったのでした。
神様の愛は敵対者へだって届いていた。信じられるだろうか?私たちもかつては神様への敵対者だった。私もです。はっきりと自覚しています。私は神様の敵対者だった。神様を時に操り人形的に考え、自分の思うように答える神としてしか私たちは神様を見ていないし、ダメだと思えば他の解決をくれる神を探す。そうして神様の存在を、いや神様を神様としない私たち。サウルもそうだった。サウルも、自分よりも活躍する物をねたみ始め、なぜ神は私にこれをしないんだ?とねたむ(まあ神様の祝福が離れた原因は他にもたくさんあったのですが)。
それでも実は神様はサウルに悔い改める機会はいくらでも与えていた、その愛を示されていたのに彼は最後まで神様に帰ることはなかった…私たち神様から離れていた敵対者を神様は見捨てなどしなかった。だから、神様は私たちが本来支払わなければいけない罪の報酬、死、裁きをご自分の御子イエス様に負わせる決断をされた。私たちはサウルのように神様から離れ、本来神様の元に帰る事など赦されない。しかし、不毛の地、何もない地、もはや絶望の中にいるメフィボシェテたちを、罪の中に、神様から離れ悲しみ絶望、痛み、病、重荷…そうした中にいる私たちをご自身者とに引き戻すために、いや、引き上げるために、ご自分の御子イエス様を身代りに十字架に欠け、身代わりに罰し、身代わりに死なせた。何の罪もない神の御子イエス様にそのいのちをもって、私たちの罪の代価を支払わせたのです。信じられるだろうか?ダビデの愛どころではない。
神様から離れているあなたを不憫に思われる神様はあなたが神様のところに帰る道、永遠の裁きから神様の子へと引き上げるために、その刑罰を御子イエス様のいのちを持って支払われた。そしてイエス様を救い主として信じるなら、罪の泥沼から出て、罪の中から、闇の中から出て、その墓場から出たい、と赦しを乞うなら、悔い改めるなら、あなたは復活されたイエス様と共に、その惨めな死の中から引き上げられ、神様の子とされ、その王宮の食卓に招かれ、その王の子の一人と同じようにあなたを養われるのです。でもその招待状は1日限定ではない、毎日、あなたがイエス様を救い主として受け入れる時、この愛の御手をつかむなら、この瞬間から毎日、あなたと共にあり、あなたと共に食卓にいる、つまりあなたと共にイエス様は住まわれ、導かれ、ご自身を現される。メフィボシェテのように、本来神様が私たちに与えたいと思っていた御心、ご計画、ご愛が全てそこにある。
昨日一昨日と書きましたが、神様の資産をあなたは受け継ぎ、神様の愛を、祝福を、日々注がれる。その期限はいつまで?あなたが死して後天の御国に行くその日まで。いやその先も?
私たちは罪の中から外を見てうらやむ必要などない。いつまでも不毛の地にとどまっている必要はない。神様は御子イエス様をお遣わしになり、そのいのちをもってあなたをご自身の食卓に招き入れたのだから。もうその不毛の地に喜びを、自らの名誉を、神を捜し求めるのをやめ、そこからイエス様と共に出て、神様の王宮、神様のくださる養いの中、愛の中、疑わず歩もう。あなたに必要なのはただ一つ。この招待状を受けて王宮に行ったメフィボシェテのように、ただ神様の前に悔い改め帰ることだけ。もう支払うべき代価はイエス様の十字架によって支払い済みだから。そこにあるのは御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどの神様の愛。
あなたは「恐れることはない。わたし(神様)は、御子イエスのために、あなたに恵みを施したい。あなたの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい」という招きに今日、どう応えるだろうか?