ー屁理屈を並べるよりも、シンプルな話ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「見よ。『私は道理を見いだそうとして、一つ一つに当たり、見いだしたことは次のとおりである』と伝道者は言う。私はなおも捜し求めているが、見いださない。私は千人のうちに、ひとりの男を見いだしたが、そのすべてのうちに、ひとりの女も見いださなかった。私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。」

伝道者の書727-29

 

神様の愛は理屈ではない。複雑に考える話ではない。神様はただあなたを愛されている。もっとシンプルに、でも謙遜にイエス様の十字架の愛の前にひざまずこう。

 

随分昔の話になりますが、イスラエル王国の3代目の王のソロモンという人がいたのですが、彼は若くして王になりました。他の兄弟と比べて彼が特質に優れていたのか?と言われたらそうでもない。長男でもなかった。ソロモン王本人も国を治めるほどの能力などない、と言っていたほど。そんな彼だからこそ、王になる前、神様から何を望むか?と問われた時に、この国を正しく治めることができるように(要するに神様を恐れ従うことができるように)、と願い、彼は遠い異国にさえ届くほどの知恵、富、名声を得て行ったのでした。

 

しかし、彼はだんだん高慢になっていきます。上・神様からの恵みによって王になり、助けられ、良い国となって行ったのにもかかわらず、彼は神様以外の物にもっと良い物を、と求め始めた。自分の宮殿のために重い税をの仕掛け、神よりも目に見える関係こそが助けになるよね、と異国の女性と結婚することで国交を結ぶも、それは後に国を苦しめることになる…また様々な快楽、欲望ゆえに幸せを求め、なんと奥さんと側女合わせて1000人の女性をそのそばに置いた。今の時代だったら考えられない。

 

でも、彼はその中には決して幸せを見いだせなかった、と↑のように書き残した。「私はなおも捜し求めているが、見いださない。私は千人のうちに、ひとりの男を見いだしたが、そのすべてのうちに、ひとりの女も見いださなかった」と。

 

彼は神様のくださるものが自分にとっての最善であるということを疑った。ないし自分の思う方向に神様が進ませてくれなかったこともあったろう。神様が果たしてこれに応えてくれるのか?今周りの敵国の危険がある中で神様が保証してくれるのか?と疑って別な手を自分で打って行った。

 

私たちは神様を難しく考えすぎている。屁理屈を並べて、自分の常識、能力の枠の中に納めようとして疑う。神様という存在そのものを。どれだけ素晴らしい方なのか、どれだけ愛に満ち溢れた方であるか。ちなみに、他の訳を見ると、屁理屈ではなく「複雑な考え方」とも訳せるそうで、私たちは物事を複雑な考え方で見る。いや、神様に対してさえ。

 

でも、神様の愛ってそんな屁理屈で測るもの?違う。自分の常識で測れるもの?違う。神様の愛は私たちの常識では測れない。昨日も書きましたが、神様は、私たちにご自身の資産を継がせるために、神様の恵み、愛、祝福、いのちを惜しみなく注ぐために、私たちを造られた。でも、私たちは神さから勝手に離れ、裏切り、すぐにソロモンのように切り捨てる。こんなものにどうして神様はその愛を注ぐだろう?これが私たちの考える常識。

 

でも神様は、それでもなお、ご自身の手で精魂込めて私たちを造られた神様は、私たちがこの永遠の資産、祝福を受けず、逆に裁きという試算を受ける事が我慢できなかった。だから、私たちが本来受けなければならない刑罰を何の罪もない、ご自分の御子イエス様に身代りに背負わせ、身代わりに罰せられ、身代わりに死なれた。あり得ない、信じられない、常識的に考えたらあり得ない。でも神様は人の常識に捕らえられず、それでもあなたが帰って来るなら、私はこの愛を惜しまず注ごうと実行されたのです。どんなに周りから罵られようとも、痛めつけられようとも、裏切られようともやめなかった。

 

人がその友のために命を捨てる。これよりも大きな愛はない。でも何の罪もないイエス様がこれを実行された。これ以上の愛があるだろう?どうしてこの愛を疑う必要があるだろう。このイエス様のいのちにかけて取り戻しされ神様の子とされようとされた、そのいのちという代価をもってあなたを取り戻されたなら、どうして神様があなたのうちに計画しておられる御心、ご計画を疑う必要があるだろう。あなたのために神様は最高の資産、御子イエス様のいのちさえ与えられたのですから。