ーイエス様のお心はー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。『主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。』イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。イエスは、彼にこう命じられた。『だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。』しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。」

ルカによる福音書512-15

 

イエス様のお心は私たちが聖くなる事。本来あるべき姿・罪の奴隷ではなく神様の子へと変えられること。それが神様のお心。あなたがそのお心を求めるなら、今日これを得る。

 

さて、神の御子イエス様が今から約2000年ほど前、人となって生まれてこられ、歩まれたときの話。ある日イエス様のうわさを聞きつけた、ツァラアトという重い皮膚病を抱えていた方がイエス様のところに来るのでした。

 

あ、重い皮膚病をイエス様が癒してくださったんだね、すごいね、とかそう思われて終わりになりそうな話なのですが、実はこれ、とんでもなく凄い話なのです。というのも、このツァラアトというのは汚れの象徴、罪の象徴とも当時考えられ、隔離され、差別されていた。まあ、神様が隔離するように言ったのは、現在の感染症を考えたらそのリスク(今のような医療施設は当時はなかったですし)の可能性も0ではありませんが。その汚れが移ることを避けるために隔離されていた。神様の民から隔離されるという悲しい状態にあったのです。

 

ですから、触るなんてとんでもない話。今でも感染症と分かっている患者様に直接触るだなんてありえない話。しかしイエス様は恐れることなくその手を伸ばし、触れられた。律法というその決まりごとにおいて、触れたら触れた人も汚れる、と明確に記されていたので、この重い皮膚病を抱えていた人に触れてくれる人なんていない、完全に隔絶され、孤独だったのでした、その彼にイエス様は、神の御子たる、何の罪も汚れもないイエス様が触れられた。そして、わたしの心だ、と言って癒された。

 

これがイエス様のお心なんです。イエス様は触れなくてもおそらく癒す事は出来たと思う。しかし、イエス様はそんな遠く離れてどこかの王座に鎮座して召使に命令して、気が向いた時だけ助ける、そんな方ではない。聖いイエス様が罪にまみれた人のところに来るのなんてありえない、でも、神様との断絶された関係を取り戻すために、来られたのです。ただ一時的に解決するのではなく、その手を取り、神様の元へ導き救い出すために。ただ癒されて終わり、ではなく彼の生涯、彼自身そのものを取り戻しに来られたのです。罪によって神様と隔離されていた関係から、和解され、神様の子として本来の神様の望む彼になるために。

 

本来、罪も汚れもない神様が、罪に汚れた私たちに愛を示すなんてありえない話なんです。そうでしょう?勝手に神様から離れて行った人間、好き勝手に生きて、自分の都合の良いように利用する、召使いのように扱う私たち、自分の思うように答えなければすぐに捨てて他の神を探す、まるで使い捨てカメラのように神様を見る…そんな身勝手な私たちに神様がどうしてその愛を示す必要があるだろう?だったら、このツァラアトの男性のように神様から断絶されたまま、その悲しみのままでいればいいじゃないか、とは考えなかった。

 

ならば、と本来負う必要のない、私たちの罪を何の罪もない神の御子たるイエス様がその汚れを引き受けてくださったのです。その手を取って。触れて汚れが移る、とは考えずに、あなたのためなら、その罪の罰も、呪いも、痛みも悲しみも全部私が背負おう、と。そして私たちの罪を身代りに背負い十字架にかかり、身代わりに罰せられ、死なれ、これらを葬られた。私たちが支払うべき罪の夫妻、刑罰を身代りに支払ってくださった。そうしてまで、ツァラアトという重い皮膚病の人が癒されると元の社会に帰れるように、私たちを神様の元に引き戻してくださったのです。引き上げてくださったのです。私たちがこのイエス様を自分の罪のために身代わりとなって死んでくださり、またよみがえられた救い主として信じ受け入れる時、私たちもまた復活されたイエス様とともに、この断絶された墓場から、罪の奴隷から引き上げられ神様の子とされる。聖められるのです。

 

イエス様が聖めたいのは、何か私たちの持っている傷、一時的な問題、悩みだけではない。神様はもちろん、このツァラアトの男性をあなたの罪を背負っていくからあとは頑張って生きてね、と言わずに癒されたように、私たち自身の抱える問題にも主は応えてくださります。が、本質的には、イエス様が聖めたいのは私たちと神様との関係なんです。その一時的な癒しで終えたくはないのです。御子イエス様にあって永遠に神様との和解、恵みの中を生きてほしいのです。

 

イエス様はこの男性に他の人には話さないように、ただそのルールにしたがって、癒されたか判定する祭司さんに見せて戻って行きなさい、とおっしゃった。それは、癒しだけを求めてくるのではなく、救い主を求めてほしい、この中に生きてほしい、と願ってのこと。もちろんその十字架において、その病もイエス様はお引き受けになりますが(補足:癒される人もいれば癒されない人もいるかもしれませんが、しかし私たちがイエス様を救い主として信じるなら、その場では癒されなくとも最後には、死して後、その病は完全に癒され、もう病気も死ぬこともない完全な体をいただくという点において、癒しはその十字架に確かにあります。その完成の途上に私たちがあるだけ。その癒しはいつかは神様の御心・主権の中にある)、イエス様は本当のいのち、癒しは、この神様との和解にある、と導かれたのです。その和解された関係において、イエス様があの、触れられるに値しないようなツァラアトの男性に触れられたように、あなたの生涯に触れ、罪によって断絶された悲しみの、汚れたあなたを新しく造り変え、神様のいのちで、愛であふれさせてくださるのです。どこか遠くで見てるだけ~な関係ではなく、直接あなたに触れられ導かれる。あなたがイエス様に、あのツァラアトの男性のように「あなたの御心一つで聖められます」と救いを求めるなら、今日あなたは神様と和解され、本当の癒しを受ける。

 

あなたは今日、神様に何を求めて近づきますか?あなた自身、あなたそのものを癒される、造り変えられること、罪の赦しと和解を求めるでしょうか?それとも?イエス様のお心は、私たちの悔い改めと神様とあなたの和解。聖め神様の御心、本来の御心のうちに造り変えること。それは御子イエス様がいのちを投げ出してまでもあなたに願ったこと。さて、あなたは今日主の前に何を求めて近づきますか?