ー共に立ち力を与え…- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私は獅子の口から助け出されました。主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。」

Ⅱテモテへの手紙417-18

 

イエス様は、どこかに鎮座して黙っていて何もしない神様ではない。あなたと共におられる方。あなたはこの確信があるだろうか?これ以上に感謝なことはないのではないだろうか?

 

さて、上のことばを手紙に書き残したのはパウロさんという人でした。彼はキリスト教徒を迫害し、殺すための策略を建て、またある若いクリスチャンの殺害に賛同したほどの、クリスチャンから、また神様の目から見たらあり得ない、こんなものは打ち殺せ!そう叫びたくなるような人間でした。

 

しかし、こともあろうに、その迫害している対象のイエス様はパウロの前に現れ、彼を打つどころか、殺すどころか、彼を悔い改めに導き、救いに招かれたのでした。信じられますか?人間の目から見たら、こんな奴、絶対に許さん、と言いたくなるところでしょう。彼の弟子(12弟子というよりも、イエス様を信じ仕えている人)や信じる人たちを迫害し、クリスチャンになりたての、しかもこれから用いられていく人の殺害に加担したのですから。

 

しかし、驚くべきことに、その殺された人は彼らの罪の赦しを懇願したんですけどね。そして御子イエス様も、パウロが滅びることを望まなかった。有能な人物だったから?後の宣教者として使えそうな人物だから?違う。パウロもまた神様の大切な子供の一人だから、滅びゆく事が我慢できなかった。だから彼の罪をもイエス様は十字架に背負ってくださっていたのです。彼の救い主となられていたのです。パウロ自身も神様を求め、救いは求めていた、でも理解できず暗闇の中に彷徨う彼を見捨てられなかったのです。イエス様ご自身が、イエス様を迫害し、亡き者にしようとするパウロを訪問し、探しだし、救いに来られたのです。そして彼の救い主となられた。

 

何という驚くべきことだろう。でも、救い主になる、ということは悔い改めた人の罪を赦して終わり、後は好きに生きな、ではないのです。その人は神様の子とされるのです。その人を神様ご自身がイエス様のいのちという代価を持って買い取られたのです。だから神様は私たちを投げ出さない。上のことばにあるように共にいてくださるのです。いや、投げ出され、神様のいのちを失っている状態を、罪の中にいる状態の私たちを嘆かれたからこそ、イエス様のいのちをもって私たちを救い出されたのですから、投げ出されるはずがない。むしろ投げ出されたと感じるときは、私たち自身が神様を投げ出した、捨てていないか?吟味する必要がある。

 

これをパウロ自身はほんとうによく実感したからこそ、晩年、いよいよ彼自身ローマによって殺されようとしている、殉教しようとしている直前になっても、この事実を若いテモテに、私たちに伝えたかったのです。確かに神様は共におられた、と。獅子の口に投げ込まれようと救い出され(それは迫害や様々な問題との戦い、もしかしたらコロッセオの事も含まれているかもしれませんが)、また力を与えてくださった、と。これから殺されようとしている事は分かっている、けど、その中においても神様が最後まで共にいて天の御国に導いてくださる、その喜びに彼は溢れていたのでした。仮に殉教しようとも主が共にいてくださるなら、この殉教を通して神様は何かをなしてくださると信じ。もう彼をサタンは捕らえることはできない、殉教してもわたしは勝利者となる、神様の子として天の御国に迎え入れられる、これ以上の喜びはない、と。

 

私たちは忘れてはいけない。イエス様は、罪もないのに私たちの罪を身代りに背負い十字架に架かって死なれてまで、私たちの滅びゆく運命、死の底に降って行かれてまで私たちを救い出されようとされたということを。そこまでされる方が、あなたと共に今やおられるのです。イエス様があなたの救い主となるために死の底にまで下って行かれたのです。あなたを死の底から、罪の奴隷から救い出し神様の子とされ、そこで終わらず本来神様があなたに持っておられる計画、パウロの場合は宣教者、そこに引き戻し私たちがあるべき姿に造り変えてくださるのです。本来そうであったはずのイエス様が私たちと共に歩まれ、苦難困難の中において一緒に戦われ、励まされ、ご自身の御力を現し、栄光を現してくださる。イエス様ご自身があなたの救い主となられたということは、救って終わり、ではなくこういうことなのです。この中においてサタンは何もあなたを捕らえることはできない。迫害や苦難もあなたを追いかけることはできない。仮にパウロのような殉教、ないし肉の目には悲しみの結果に見えても神様がそれをよいものに最後は導いてくださる、そしてあなたを天の御国にまで導いてくださる。だからこそ私たちはこの方に従い歩もう。この方に従い歩む中において神様のいのちが溢れるから。

 

同時に罪に対して、また世が見せる、サタンが見せる誘惑に対して、毅然とNOを突きつけ、イエス様が私たちのうちに与えてくださる喜び、ご計画に目を向けたい。イエス様が私の救い主になってくださった、ありがとう、で終わらずに、この愛に応答し、イエス様を主とし歩みたいものです。

 

イエス様はあなたの救い主となられた。この事をあなたは今日、どう考え、応答するだろうか?