「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」 詩篇119篇130節
神様は語る神様です。黙っているそこいらの作り物の偽神とはわけが違います。何せ真の神様、唯一真の神様は生きておられますから。誰か特別な人にだけ語られるのではない、私たちに光を差すために語られるのです。
私たちは神様の言葉を疑う。というよりも、自分の思い>神様のことば、という構図にどうしても持って来てしまう。こっちの方が喜びがあるに違いない、と。それは人類の初めからそう。アダムとエヴァも、神様が全ての良きものを備え、伴侶も衣食住全てを完全に備えていてくださった。環境も。ところが、サタンの「これを食べれば神様のようになれるよ」という誘惑の前に、神様が自分によいものをくださっていないのではないか?と疑い、これを取ってしまった。しかし結果、神様との関係は断絶され、その祝福もいのちも失ってしまった。神になって何でも自由に好きなように生きられるとその主権を奪ってみたものの、そこには何もいのちも喜びもなかった。そして神様との関係を失い霊的な面において死に、リアルな面においても死が入ってきた。
私たちはそもそも、神様によって造られ、神様の吹きこまれたその霊によって生きるものだったのですから、私たちは神様から離れては本当の私とはなりえない。私たちに喜びを、愛を、いのちを本当に満たすことができるのは、いのちあるものとすることができるのは神様だけなのです。
こうしてアダムたちはエデンの園を追放され、私たち人間は神様との本来ある関係が断絶されてしまった。しかし神様は私たちを見捨てることはなかった。神様はその閉ざされた扉を開くべく、あなたのうちの悲しみ、苦しみ、何よりサタン、罪の奴隷の中にいる苦しみ、真の愛も喜びも見いだせないで暗闇の中にいる私たちに光を差し込むべく、神の御子たるイエス様を私たちのもとに遣わしてくださったのです。勝手に神様のもとを離れ、疑い、神様を神ともせず、自分を助ける召し使い程度にしか見ない、自分の思うように答えないなら切り捨て神を殺すような私たちのところに。
信じられるだろうか?でも神様の愛というのは私たち人間の愛とは次元が違うのです。神様にっては私たち一人ひとりは高価で尊い存在なのです。だから見捨てることができない。そのような暗闇の中にいることが我慢できない。ならば彼らが、私たちが支払わなければいけない刑罰、死、裁きを御子イエス様に身代りに背負わせ十字架に架けよう、そう決断され、そして実行に移された。何の罪もない、神の御子たるイエス様が。そこまでしてでも、あなたを取り戻したかったのです。そこにいたのは裏切り者や死刑囚、側近の弟子たち。この裏切り者!と叫んで十字架から降りる事も出来たのにそれをせず、「父よ彼らをお赦しください。彼らは自分たちでは何をしているのかわからないのです」と最後まで赦しを懇願し、わたしがこの身にその刑罰を受けますから、と最後まで投げ出すことなく死にまで従われた…
そのイエス様のいのちという代価を持ってまで神様はあなたを取り戻そうとされたのです。あなたの罪の奴隷、永遠の滅びという絶望から救い出すため、光を灯すため。そうしてあなたが神様の前に悔い改めるとき、イエス様が死からよみがえられたように、あなたも同じように、その罪の奴隷から引き上げられるのです。もうあなたの刑罰・死はイエス様のいのちをもって支払い済みだ、と。そしてあなたを神様の子とされる。
そこまでしてまで神様はあなたを愛されている。ならばどうして私たちは神様の言葉を、ご計画を疑う必要があるだろう。今神様が供えてくださっている者、家族、仕事、人間関係、時…あなたを神様は御子イエス様のいのちをもって買い戻しご自分のものとされたんですよ?あなたに光を灯すために。その神様があなたに日々語りかけ、またあなたを導き、ご自身を現したい、あなたのうちに身力を注ぎたいとあなたがその耳を傾けるのを、従うのを待っているのです。
神様は御子イエス様のいのちをもって取り戻してまであなたを愛し、その十字架ゆえにあなたに良い計画を、本来あるべきあなたの歩みに、あなた自身に持っておられる。最後それに従うか否か、そこにかかるのです。私たちが自分の思いの前に神様のその最善のご計画に従います、とその御言葉に従う時、神様の最善があなたのうちになされる。私たちはこの十字架の輝きを見る時、その計画の、神様の私たちへの思いを悟るのではないだろうか?私たちがその御言葉の素晴らしさに信じ従う時、神様のいのちがあなたのうちにあふれ、罪の中に歩んでいた暗闇のようではない、神様の光が照らされた中を歩むことができるのです。そこまでしてまであなたを愛する神様のその言葉はあなたを生かすため、生きた者とするために語られる。最後この言葉に信頼し従うか否か、従う時私たちは、あなたはあなたのうちに喜びを、光を、いのちを見出すのです。
神様は私たちが暗闇のうち、罪の内を歩むのではなく、そこから取り戻し、光のうち、神様の子としての本来あるべき姿に戻すためにその扉を、神様の方から開かれた。私たちはこの神様の愛の前にどう応答するだろうか?