ー本当の知恵とはー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。」

箴言243-5

 

神様は黙る神様ではなく語る神様です。神様は何もしないでさせる神様ではなく、行動する神様です。私たちは神様をそこいらの思想や宗教の教祖とかそれと同レベルのものとして考えてはいけない。

 

さて上のことばを残したのはソロモンさんという、まあ結構世界史にも出てくるくらい有名な知者でまた非常に富んだイスラエルの王ソロモンが残したものです。彼は良くも悪くも上のことばを実体験した人でした。彼は当時の王としては若くして即位しましたし、経験も浅い。とても民を納められるようなものではなかった。でも、彼は神様に知恵を求めた。正しく治める心を、神様に従う心を求めた。その結果、遠い異国の女王でさえ、わざわざ訪問したくなるほど名声を得、また国を潤させ、国も安定され、宝物に満ち、異国との戦闘はなくとも実に力ある政治を行っていた。

 

一方で、途中からそれらの成功は自分の力によるものだ、と神様から離れ始め、自らの栄光を求め始めた時に、民は離れて行った。他国との交渉には神様何かいなくても大丈夫、と異国の女性を妻として受け入れ、その女性の持ち込んだ異教的な物、考え方、またその背後の国やその女性を喜ばせるべく、まあいわゆる忖度的な感じで受け入れて行ったため、別な知恵をもって家を、国を建てようとした結果、国は腐敗し本人の生涯も暗い者となり、国は重税に苦しみ、その跡を継いだ息子は親の悪いこと頃を真似てさらに悪性を行い国を分裂させる…

 

そう、上のことばというのはある意味で本当に真実。問題なのは知恵とは何なのか?ということ。何を知恵とするのか?そこによって全く私たちは変わってくる。建て上げられる家、生涯は、私たち自身という存在は変わってくる。いや、現在から未来に至るまで。

 

上のソロモンのケースを見てわかる通り、ここでいう知恵というのは神様なのです。そして、もう一つ勘違いしてはいけないのは、私たちが知恵を「利用して」生涯をよいものにするのではない、「神様という知恵によって」私たちの生涯は、いや私たち自身は造り上げられていくのです。本当に力あるものに、宝物によって満たされるのです。

 

私たちは本来神様と共に生き、神様のいのち、祝福、恵みによって生きるものでした。神様は私たち人間が創造される前に私たちに必要な物はすべて備えられていた。伴侶さえ神様は備えてくださった。互いの必要となる伴侶をも。衣食住含めすべて神様が必要を満たされていた。何より、神様の吹きこまれた霊によって本当の意味で生きるものとなった、と書いてあるのですが、そういう意味で私たちは神様の恵なしに本当の意味で生きるものとはならないのです。ぶどうの実はぶどうの木に繋がらない限り実を結ぶことはできずに落ちて死んでいくだけであるのと同じです。

 

しかし私たちは神様がくださるものよりも自分で好きなように生きたい、自分が神となって生きたい、もっと喜びを与える神的な何かを探しに神様の元から離れて行ってしまった。これが罪。罪は犯罪行為だけを指すわけではない。神様から離れる事、自分を神とすることそれに他ならない。自分が神になるから、自分の気に食わないことに対して何かをする、具体的な犯罪的なこと、誰かを傷つけることをしていくわけです。自分が神でありたいから自分の都合のいい時に自分の望むものを与えない神など神ではない、とまるで召使のように見て、切り捨てる、ある意味で神様を殺す。

 

ちょっと脱線しましたが、そんな私たちは神様から見捨てられ、本来死にゆくしかなかったのです。しかし神様は私たちを見捨てる事は出来なかった。だから死にゆくしかない、いのちの木、神様ご自身から離れ死んでいくしかない私たちをその枝につなぐべく、私たちの罪を身代りに神の御子たるイエス様に背負わせ、身代わりに罰せられ、私たちが受けるべき罰を、死をその身に背負わされ、罰せられ、死なれた。しかし復活されたことによって、自分の罪を悔い改めイエス様を救い主として信じ受け入れる時、死にゆくしかない私たちを、イエス様と共によみがえらせ、本来あるべき神様という木に、神様の家族に引き戻してくださるのです。

 

そして罪の奴隷、死刑囚、最後は裁かれ死にゆくしかなかった私たちを神様の子という本来あるべき、神様が望まれる私たちの本来の姿に造り変えてくださるのです。そのイエス様という名、イエス様のいのちという名の知恵によって私たちの家は、生涯は新しく建て上げられていくのです。私たちが建てるのではない、そのいのちによって日々建て上げられ続けていくのです。主体は私たちではない、あなたのうちに住まわれる御子イエス様があなたを建て上げていくのです。堅くされ、良い宝で満たして行ってくださるのです。あなたを力強くされるのです。

 

先に私は何を知恵にするかによって私たちの現在、未来は変わっていくと書きましたが、私たちがイエス様の前に悔い改め立ち返る時、私たちは永遠のいのちを得、イエス様が建て上げられる新しい真のいのちを今日、この現在から得るのです。永遠のいのち、永遠の永遠、死して後天の御国に行くその日まで。一方で、私たちがこれを拒否している限りにおいて、私たちの現在は真の神様のいのちはそこにあらず、罪の奴隷のまま捕らえられている、神様の本来私たちのうちに満たしたいいのちも宝もへったくれもない。そして未来に待つのは永遠の死、裁き。

 

私たちは神様をどこかの思想や宗教家たちと並べて考えてはいけない、同レベルで見てはいけない。神様は唯一真の神様です。神様は上に書いたようにまさにその御子イエス様のいのちにかけて、あなたに語り、また行動する神様なのです。今日、あなたは誰を神様とするだろうか?私たちはイエス様の元に帰り、イエス様にあるこのいのち、主に従い歩み続けようではありませんか。あなたを建て上げるのは、御子イエス様にかけて責任を持たれる神様ご自身です。この神様に信頼し歩もう。