「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入ったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。」
申命記18章9-11節
イエス様は死んで終わらず、3日目によみがえられ、今も生きている。その方が私たちのうちにご臨在くださり共におられる。何という幸いだろう。いや、その神様が私たちの祈りを聴いてくださっている、何という恵みだろう。
昔神様は、モーセという人を通して律法というものを与えました。それは世の中の宗教のような宗教的に縛り付ける、ものというよりも、私たちが幸せに歩むためのものでした。その律法というものが神様から与えられたとき、神様はこうもおっしゃっていました。「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである」と。そう、神様は私たちが幸せであるためにどう生きたらいいのか、そのことを教えてくださったのです。
こう、キリスト教というと縛り付けられる~的なイメージを持つ方がいますがとんでもない、神様は私たちの生活の細部にまで及んで「心配され」また「養われたい」のです。関心を持っておられるのです。だから神様は私たちが神様をしたい求めてくるのを待っておられる。だから、神様は上の律法に書いているように、そんな生きてもいない偽の神のために自分の息子や娘をいけにえにする必要もないし(こんな方法をいまする人はいないでしょうが、形は違えども何かのいけにえを捧げて、なんてことはありますよね)、占いも魔術も呪術も霊媒も口寄せも死人に伺いを立てる(死人への伺いは先祖崇拝が日本では一番近いでしょう)必要もない、そう訴えるのです。神様が聴いているから。
いや、そもそも占いとか霊媒とか死者に伺い立てようにもそんなのを聴いている存在なんていないんですけどね。いくらお金をつぎ込もうが、心をつぎ込もうが、賽銭を出そうが。だってそれらは存在しない、生きていない、死んだ物だから。私たちは自分の願う通に応える神的な物を捜し求めるけど、真の神様はただ一人なんだ。そんな死んだ物に訴えかけたって答えることはできない。人の造り上げた思想も。
でも、実は私たちは神様に祈っても答えてもらうに値するものではなかったのです。私たちは神様から勝手に離れ、神様を捨てた。その罪ゆえに神様から断絶されてしまった。自分の都合のいい時に応えなければ神様を捨て自分の都合に合わせる神を探し始める。そんなの、上の律法が語られた時のイスラエルの民や、一番最初の日とアダムとエヴァと何の変りもない。そうして自分のうちから押しのけるという意味でその存在を殺す。そんな私たちに神様がどこに応える義務があります?
でも、人の考えでは、ない、これが答えでしょう。でも神様は違った。それでも私たちを見捨てられなかった。神様が私たちを愛し、精魂込めて造られた、その愛おしさゆえに、私たちを捨てられず、この失われてしまった関係を取り戻すべく、私たちが本来この祈りが聴かれるべく支払わなければならなかった、和解の代価を、御子イエス様のいのちをもって支払われたのです。私たちの罪を身代りに背負い、十字架に架かられ、死なれたことで。何の罪もない、神の御子たるイエス様が。信じられるだろうか?
それだけでも信じられないのに、何と父なる神様は御子イエス様を死者の中からよみがえらせてくださったのです。普通に考えたらもっとありえないことを起こされたのです。他の宗教家たちとはわけが違う。何か犠牲になった、というわけではない、私たちの罪を身代りに背負われ罰せられた、それだけにとどまらずに、よみがえらせてくださったことによって、イエス様を自分の罪の身代わりとなって死んでくださりまたよみがえられた救い主として信じるなら、私たちの罪は無罪放免となり、神様と和解させていただき、罪の奴隷、もう聞くに値しない捨てるべき、滅ぶべき私たちを神様の子としてくださるのです。もしイエス様が死んだままだったら、上の言葉的には死者に伺いなど立てる事などできないのですから、祈りは聞いてもらえない。そもそも和解も果たされないのですから。しかし御子イエス様は死者の中からよみがえられたのです。私たちの閉ざされた墓を、絶望を、開いてくださったのです。
そして今も生きて私たちのためにとりなし、また私たちとともにいつまでも世の終わりまでおられ、ご自身を現される。今日も語られ、励まされ、そのご計画を私たちのうちに成したいとあなたが立ち帰ること、伺いを立てることを待っておられるのです。ご自分のいのちを私たちの代わりに罪の代価として支払ってくださるほどに愛される方が、私たちの罪も、痛みも苦しみも病も全部背負って打ち砕かれよみがえられたイエス様が、今も生きておられ共に歩まれ、あなたの祈りを今日も聞かれ、ご自身の思いを語り、また十字架に架かってまでも取り戻してでも愛を注ぎたいというその思いを、愛をあなたのうちに現したい、と待っておられるのです。何を私たちは疑い恐れる必要があるのでしょう?
私たちはイエス様を幾つかある偽の神と同列に並べてはいけない。そんなものは存在もしなければ生きてもいない、死んだ物。しかし、御子イエス様は真の神様であり、なお死者の中からよみがえられ、今も「生きている」神様なのです。今日、そんな死んだ偽りの神ではない、今も生きておられるイエス様にお伺いを建て、祈り求め、その御声に従い歩もうではありませんか。神様のあなたのうちに注ぎたい思いは、ご自分の御子イエス様を身代りに罰し殺す事さえ惜しまなかった愛です。いつまでもイエス様を十字架に架け続けることを、殺したままにするのをやめ、そんな空しい物の中にいのちを求めるのをやめ、今も生きておられる主と共に歩もう。