「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。」
詩篇56篇8-11節
神様は私たちは気づかないかもしれませんが、私たちの涙を、嘆きを覚えておられる。さすらいの日も。私たちは神様が味方であることを忘れてはいけない。
上の詩をうたったのは、昔イスラエルの王だったダビデ王。まあと言ってもたぶん王になる前の話だと思いますが、彼は少なからず次の王になる事は決まっていて、それゆえに現在の王からねたまれそのいのちを狙われていました(と言っても、悪魔がその現在の王の心にあるねたみをさらに刺激しているという側面もありますが)。そんなわけで彼はしばし逃亡生活をしていました。人気はあるし現在の王の息子にもしたわれ、ダビデを次の王にと願っていたし、その娘を奥さんにももらっていた。しかしいわれもない妬みによって彼はいのちを狙われ逃亡をせざるを得なかったのです。
その日々はどれだけ厳しいものだったでしょう。そしてイスラエルの当時の宿敵でもあったペリシテのガテにさらに捕らえられ、四方八方塞がっていた。ああ神様、あなたが私を召し出してくださったのに、どうしてこんなことに??
ここで私たちなら、いつまでもわたしを救わない神など神ではないではないか!と思いたくなるところ。ダビデからしたら理不尽もいいところ。しかし、それでもダビデは文句を言うわけでもなく、こう告白した。「あなたは、私のさすらいをしるしておられます」と。別の訳では、「神よ、あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に」と、神様ご自身の記録の中に確かに覚えておられる事、記されている、ということを告白するのです。
そう。神様は、私たちに無関心ではない。もし無関心だというなら、神様をすぐに捨てる、離れる、自分の操り人形のようにしか見ていない、気に食わなければ捨てるという名の殺す、そんな私たちのためにどうしてその罪を、ご自分の御子イエスキリスト様に身代りに背負って十字架に架かるだろう。罰せられ、死なせる。あり得ない話。でも、神様は私たちのことを見捨てられない故に、私たちの罪をも背負われた。裏切者ペテロの罪も、癒してもすぐに反旗を翻す群衆の罪も、すぐ横で一緒に死刑囚として十字架に架かっている死刑囚のためにも。そのあなたを取り戻すために、罪の奴隷、闇から、悲しみ絶望から、裁きから取り戻すために、そして本来あるべき神様の子としての本来のあなたを取り戻すために、御子イエス様を身代りに十字架に架けたのです。あり得ない。でもそのありえないことを神様はなされたのです。あなたの罪の奴隷として暗闇の中にいるその涙を見てイエス様自身が涙をもって覚え、あなたの罪を身代りに背負われた。
神様はあなたの名前を憶えておられる。神様の目にあなたが留まらない日はない。あなたは知らないかもしれない。でも神様はあなたのうちに住まわれ、時に励ましまた語られ、またご自身を現されている。でも私たちはこの神様の言葉に信頼しない、ご自分の御子イエス様の命までかけてあなたを取り戻され、神様のもの、子とされた、買い取られた方が今共におられるのに。その神様が何を私たちに、私のうちにならされようとしているのか、それを信用しない。
私たちは神様があなたをイエス様のいのちをもって取り戻された、買い戻されたほどに私たちの見方でありたいと願う神様の愛をもう一度その胸に刻もう。それならサタンも剣も裸も迫害もあなたを神様の愛から引き離す事などできない。もっと私たちはこの贖い主なるイエス様のことば、愛に信頼し歩もう。あなたはイエス様の十字架によって神様のもの・子とされたのです。イエス様にあってあなたは神様の書に記されている事に感謝しながら、神様の救いの日を、その栄光が現される事を祈り、待ち望もう。