ー剣を納めるー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエスは彼に言われた。『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。』そのとき、イエスは群衆に言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。』そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。」

マタイによる福音書2651-56

 

私たちは自分の武器、知識、経験、思想に頼る。別にこれらを否定するつもりはないのですが、私たちは最も大事なことを忘れる。それは私たちには神様がいる、ということ。

 

上の話は神様の御子たるイエス様が逮捕されるあたりの話。ユダによってイエス様は売り渡され、ユダはイエス様のところに群衆、宗教家や兵士などが棒や剣をもって向かってくるのでした。その時、イエス様の弟子の一人、ペテロが剣を抜き、今イエス様を逮捕しようとしている連中の一人に切りかかり、その耳を落すのでした(実はこの大祭司のしもべという人の耳をイエス様は何と癒された。イエス様を逮捕しに来た連中なのに)。

 

その時、イエス様は剣を納めるように言うのです。信じられます?わたしならよくやった、と褒めたいくらいですが。しかしイエス様は神様の御心がなる事を願ったのです。イエス様はこうおっしゃった。イエス様は「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができ」るんです。でもイエス様はそれをしなかった。神様の御子としての権限をもって何かをすることよりも、神様の御心がなる事を願ったのでした。

 

この時、もしイエス様が、こんな裏切り者たちのために十字架に架かるなんて冗談じゃない、御使いたちよわたしを守れ、と言ったら私たちには救いはない。剣によって戦ったところで本当の勝利、罪、サタンへの勝利はなかったのです。私たちはいまだに罪の中にとらわれたまま、そして死に滅びゆくしかなかった。しかし神様の御心はこの御子イエス様のいのちをもって、このいかんともしがたい罪を、死を打ち砕かれる事にあった。そして、この罪によって断絶されていた神様と私たちの関係が和解されることにあったのです。

 

私たちの救いには剣はいらない。それはいわゆる物理的な剣というよりも自分たちの知識も何もいらない。すでにイエス様が十字架によって私たちの死を、また問題も病もすべて撃ち砕かれた。私たちは自分を神とする剣、神などいらず自分だけで生きていけるという剣、神様に反対するその剣を納め、イエス様の十字架の前に悔い改める時、私たちはこの勝利を得る。サタンも罪も、死も、病も、剣も迫害もこれに打ち勝つ事はできない。

 

私たちはこの救いを受け取る時、私たちは神様と和解される。イエス様のいのちをもってまで取り戻されたこの和解関係の中、今何を恐れる必要があるだろう。このイエス様のいのちによって買い戻されたこの関係こそ、この関係の前に遜り従う時、これ以上の剣はあるだろうか?あなたの新しいいのちはイエス様のいのちによって取り戻された神様の御心の内にあるのです。

 

私たちは自分の剣を今日置き、イエス様にこの手を、足を、私たち自身を委ねようではありませんか。戦われるのはわたしではない、神様の御心がただなる事を信じて。