ー神様が結ばせたいのはー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「正しい者(別訳:神様に従う人)の結ぶ実はいのちの木である。」

箴言1130a

 

神様の語られることばはどこかの宗教書にあるような世渡り上手になるためのことばではない。世的に繁栄をするためでもない。私たちにまことのいのちを得させるために語られる。神様は語りっぱなしにされる方ではない。語られたことを必ず実現される方。

 

昔、人類の一番最初の人、アダムとエヴァという人がいました。彼らはエデンの園というところで神様と共に住んでいました。神様は彼らが生きるに必要な全てをそこに揃えていました。ただ一つ、園の中央の木のみは食べてはだめだよ、それを食べると死ぬからね、というルールだけ。園の中央、それは神様の主権。そこを犯す時、死ぬ、と。

 

神様は彼らが幸せであるためのすべてをそろえていた。でも彼らはそれでは満足しなかった。サタンの誘惑があったとはいえ、彼らは自分が神となって好きなように生きることをのぞみ、神様の言葉を、くださるものを疑い、ついにはその主権を奪い、木の実を食べた…神様は彼らを精魂込めて愛情を込め造られた。それゆえに彼らの幸せを願って、彼らが本当に命の実を結ぶよう彼らにいつも語りかけていた。ルールで縛り付けようとしたわけではない、いつも彼らと語り合っていたでしょう。神様と彼らの関係が薄っぺらな関係とは聖書全体を見ても考えられない。どこかの主従関係的な宗教のイメージとはわけが違う。神様は私たちが大切ゆえに、私たちがいのちある歩みができるよういつでも語っておられるのです。

 

しかし彼らは疑った。結果、確かにサタンが言うようにその瞬間は死ななかったけど、神様との断絶、エデンの園からの追放により、霊的な命を失い、物理的にも本来死ぬことがないはずが最後はやはり死んでいった。

 

でも、神様の愛は何か悪いことをしたらすぐ断絶、というわけではなかった。神様はその愛をまだ示しておられた。追放前にも彼らに悔い改めの機会を示されていた。「アダム、どこにいるんだい?」と探しながら。弁明、悔い改めの機会を与えても彼らは言い訳するだけだった。そして、追放の前にまず、救い主を必ず与える事、この罪の頭サタンを必ず撃ち砕くことを誓われたのでした。それは、アダムとエヴァ、また彼らの子孫、そしてその子孫の子孫のず~っと子孫である私たちを神様は見捨てていない、その希望がまさに示されていたのです。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と

 

事実、神様はどんどん堕落していく民を切り捨てることなくその救いの御手をいつも伸ばされていた。時には直接下って行き、奴隷として囚われ苦しみ闇の中にいる民を救い出されたこともあった。神様を求める物に確かに神様は応えられた。その関係は断ち切れていなかったのです。

 

そしてそれでもいつまでも神様に立ち返ることのない私たちのために、ついに神様はご自分の御子イエス様を私たちの間に住まわせ、私たちの罪も、痛みも悲しみも全部背負って十字架に追わせ、身代わりに罰するという決断をされた。そのいのちをもって私たちの罪を贖おう、と。当時は神を愛すると言いながら自分が神となって神を支配しようとしていた偽の宗教家や、自分たちの都合だけを叶える王的神を求めて、違っていたから、と反旗を翻し裏切った群衆、側近の弟子さえ裏切る…それでも神様はその約束のことばを曲げなかった。そして一番最初の約束を成就されたのです。

 

なんでそこまで?それは願わくば、罪ゆえに死にゆくことがないように、と。神様のみことばは必ず成就する。罪に対する報酬は死。最初の約束は変わらない。でも、私たちが悔い改め、このイエス様の十字架の贖い、私の、あなたの罪のために身代わりとなって十字架に架かられ死なれたこと、また3日目によみがえられたことを信じ受け入れるなら、イエス様を救い主として信じ受け入れるなら、あなたは神様の子とされるのです。

 

神様がどうして語られるのか?神様は何を語られるのか?それはあなたが死、罪に向かっていくことを願わないから。あなたがいのちを得るために、救いを得るために主はいつでもその愛を示されている。あなたが神様から離れることがないように。そして語りっぱなしではなく、具体的にそのみことばを、行動をもって実現させてくださるのです。その究極の姿をイエス様の十字架に私たちは観ることができるのではないでしょうか?

 

すでに私たちはイエス様の十字架の贖いによって大いなるいのちの実を結ばせていただいた。そして主はなおあなたのうちに神様の実を結ばせる。神様の愛が、その御業が、ご栄光があなたのうちに現され、いのちの実を結ばせていく。私たちが結ぶのではない、神様が結ばせてくださるのです。

 

神様の言葉は、ご自分の御子イエス様のいのちにかけて必ず実現される。そのいのちをもって、私たちを神様の子とされ、取り戻された。それほどの愛を込められた方があなたに今日も語られるのです。いのちの道を。私たちは神様の言葉をどこかの思想本や講話と同レベルに下げてはいけない。何か自分が繁栄するためのハウトゥー本ととらえてはいけない。ないし宗教本ととらえてはいけない。神様のことばはあなたを救いに導き、なおそのイエス様のいのちにあって、あなたをいのちの道に、その実を結ばせてくださるのです。その結果として繁栄があるのかもしれませんが、「自分の」繁栄を求めるのはあのイエス様の時代の宗教家や群衆と変わらない。

 

私たちは神様がご自分の御子イエス様を十字架に身代りに罰してまで私たちを愛し取り戻されたその神様の御心、私たちへの本当の計画に私たちは期待し、信じ委ねたい。今日、あなたは最高の実、罪の赦し・永遠のいのちを得よ。

 

「神様に従う人の結ぶ実はいのちの木」、これをあなたは信じるだろうか?