ー神様のくださったいのちをよく考えようー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はモーセに告げて仰せられた。『人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。』モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。…モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。『あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか。彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。』その季節は初ぶどうの熟すころであった。そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。…四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。彼らはモーセに告げて言った。『私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。』そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。『私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。』しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。『私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。』彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。『私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。』」

民数記13章1-33節

 

神様は、私たち一人一人を愛情を込め、最大の愛情を注ぎ造られた。でも造って放り出すのではなく、神様は私たち一人一人に計画を持ち、神様の最高の御心を現そうとされている。しかし、私たちはこれを得なければいけない。神様は用意されている。私たちがこれを望んでこそ、求めてこそ、あなたの内にこのいのちが溢れる、その花が咲くのです。

 

さて、↑は紀元前、イスラエル国家がだ誕生する前のイスラエルの民の歴史。イスラエルの民は当時、エジプトの奴隷として捉えられていました。イスラエルの先祖の一人を通して神様がエジプトを含め、全世界を飢饉から救い出された、それなのにもかかわらず、そのことを忘れた王朝がイスラエルを恐れ、彼らを奴隷としたのでした。

 

しかし神様は彼らを見捨てることなく、エジプトを神様は討ち(と言っても何度も悔い改める機会を示され、中には悔い改め助かった者たちもいた)、家すらエルの民を救い出しました。エジプトの奴隷、暗闇の支配を受ける中から、神様の民、光のうち、神様のいのちが彼らを養う命の内に招かれたのでした。そして彼らを、彼らの先祖たちに約束された地に導き、今目の前にしたのでした。

 

この時のリーダー、モーセは神様が与えると言われた、約束された地に偵察を遣わしました。彼らの旅路は本当に困難なものがありましたし、神様が連れてきた場所。どれだけ楽しみだったことか。ただ、現実目の前に敵もあるわけで、偵察の必要もあった。同時に神様がこれだけの素晴らしいものを用意されているんだ、さあ行こう、と鼓舞する目的もあったかもしれない。

 

そこで彼らの部族のリーダーたちが全部で12人偵察に行き、40日間そこを行きめぐりました。そこでは巨人族、「アナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んで」いて、また「そこでぶどうが一ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った」というほどの素晴らしい収穫があった。皆さん、想像してみてください。大人2人がかりで担ぐほどのぶどうですよ?1房が。一体どれだけ大きいんですか。他にも多くの収穫物があった。思わぬ巨人族もいましたが、そこには驚くべき収穫物が用意されている、豊かな土地だったのです。

 

しかし、この偵察から帰って来た人たちの反応は真っ二つに分かれていました。↑の後半の方がそれです。ヨシュアとカレブは、「神様が」今私たち(彼ら)に最高のものを用意してくださっている、この収穫物を見よ、神様が与えて下さっている地なんだから、ぜひ行こう、そう呼びかけるのでした。

 

しかし他の10人の偵察隊のメンバーたちはそこにいた巨人たちを恐れ、彼らは自分たちよりも強い、我々はイナゴのようだ、絶対に行くべきではない、そう民の心をくじく発言をするのでした。

 

と、この続きは明日にするとして、ここまでのところで私たちは一つ考えたい。私たちは神様の作品です。最初にも書きましたが。私たちは果たしてイナゴのような存在なのだろうか?彼ら巨人から見たら。神様が造られたあなたがその程度のものなのか?私たちは自分の価値を忘れていないだろうか?

 

ヨシュアとカレブはここが違った。彼らは、神様が彼らを救い出し、導きだし、死んだ奴隷のようなものだったものにいのちを与えた、救い出してくださった、このいのちを神様が御手をもって支え導いてくださっている。イナゴ?とんでもない。神様が共にいるのだから大丈夫、というか神様はこの巨人よりもはるかに優れた方ではないか、その証拠が今ここにあるじゃないか、神様が、我々を造り、また救い出してくださったんだ、この方が我々に大いなる収穫を、実を結ばせてくださる、その確信にたったのです。

 

私たちは、あなたは神様から与えられたこのいのちをどう見ている、どう考えているだろうか?しかもあなたはただ神様によって造られただけではないんですよ?神様などいなくて生きていけると離れ、自分勝手に歩み、神様を捨てた私たちを、世の支配、罪の奴隷、サタンに縛られた、そのどん底にいるあなたを、イスラエルの民にされたように救い出すべく、御子イエス様を十字架に架けて私たちの罪を身代りにイエス様に背負わせ、罰せられ、死なせられた。その御子イエス様のいのちによって私たちは救い出されたんですよ?イエス様の復活と共に、死の奴隷から私たちは引き上げられたんですよ?それがあなたです。神様のそれだけの愛があなたの内に注がれているんですよ?

 

私たちはいつまで神様などいなくても大丈夫、神様を信じたって何になる?と神様を侮りあ離れているのだろう?もっと神様のくださったいのちを見つめてみてください。不安になるのなら、偵察隊がしたように、もっと神様があなたの内に結ばれている一つ一つの恵みを見てください。あなたを神様は愛していない、と等とても言えない。というよりも、愛していないならあなたの事などとっくに見捨てているし、あなたのために御子イエス様のいのちなど差し出さない。あなたは神様に取って愛する存在故にまず、あなたのためにご自分の御子イエス様のいのちを差し出されたのです。

 

このイエス様があなたの内に住まわれているゆえ、あなたを彼らが恐れるように食い尽くすようなものなどいない。神様が共におられるあなたはイナゴでもなんでもない。最高のあなたなのです。今日、もう一度神様の愛、十字架を思い出そう。思いを馳せよう。この御子イエス様のいのちによって救い出され、新しくされたあなた、このいのちを心行くまで味わおうではありませんか。あなたのうちに「神様」が豊かな実を結ばせる。神様の御心によって。神様があなたと共に進まれ戦われる。あなたはこの十字架の愛の前に、どのように告白するだろうか?それでも神様がいたって意味がない、と嘆くか、それとも、この神様の与えて下さったいのちを大いに楽しみ勝ち取って行こう、この恵みの中生きよう、と告白するか。どのような花を咲かせ,収穫するかはあなたの決断次第。神様はあなたに最高の収穫物を用意してくださっている。あなたはこれを求めるだろうか。