ー2つの悲しみ、1つの喜びー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。『私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。』そして互いに言った。『さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。』そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。『私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。』しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われた。」

民数記14章1-10節

 

神様は私たちにいのちをくださった。そして何より、失われてしまい、世に苦しみ、痛み哀しむ、何より罪の奴隷になってしまって神様のいのちを失ってしまった私たちを救い出すべく、御子イエス様のいのちをもってあなたを救い出された。買い戻してくださった。このいのちを私たちは喜ぼう。哀しむべき時がある、けど、しかし主イエス様があなたの内に今住まわれ導かれている、この事だけは忘れてはいけない。

 

さて、↑は昨日の続きになりますが、かつてエジプトの奴隷として捕らえられていたイスラエルの民。というよりもイスラエルはエジプト人にとっては命の恩人で、イスラエルの民の一人がエジプトで総理大臣になり、指揮を執った(神様が彼の内に働き)、エジプトを大飢饉から救い出したという恩を忘れ、神様を忌み嫌い、またイスラエルの民を恐れ、彼らを奴隷として支配するのでした。

 

しかし神様の憐みによって救い出された。そして死・暗闇に支配された奴隷から、神様の民として新しいいのちを彼らは得、今、かつて彼らの先祖たちに与えると誓われた約束の地・乳と蜜の流れる地(中東のような地にあって肥沃な大地であり、何より神様ご自身が祝福される地)へと導かれた。そして今、その地を目の前にしたのでした。

 

そこで当時のリーダーモーセは各部族のリーダー12人を偵察に遣わしました。そして40日間彼らはその地の偵察をしてきました。そして帰って来た彼らは2つの反応をしました。1つは、カレブと若いヨシュア、彼らは神様がこの地を与えている、彼らに実を結ばせるべく、大人二人で担がないほど持ち運べないぶどう「1房」を見せ、今こそ攻め入るべきだ、この神様のいのちを、いただきに行こう、そう言いました。

 

しかし2つ目の反応、他の十人は、しかし巨人がいて、我々はイナゴのようだ、とても勝ち目がない。神を信じたって何になる?と民の心を挫く報告をするのでした。

 

その続きが↑になるわけですが、この報告を聴いたイスラエルの民は慟哭します。彼らは「神様がいる」ということよりも、目の前の困難、巨人族に圧倒され、悲しんだ。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか」と。

 

彼らは根本的な事を忘れていた。荒野でほろんだ方がよかった、という荒野は誰が導き養っていたのか、戦いの中でいつも勝利を収めさせ、いつも食糧がない中でも養われていた、エジプトに帰った方が良い?奴隷として苦しんでいたのに?

 

彼らは忘れていた。彼らは神様によって造られ、神様が養い続け、育て、導いてきていたことを。エジプトの奴隷時代にあっても、荒野の旅路においても。

 

神様はね、パートタイムで働く神様じゃないし、派遣でたまに来られる神様ではない。神様は24時間365日、あなたを気にかけ、あなたに愛を注ぎたいのです。その御手は、その御目は共にあるのです。実際、ここでは約束の地に入れませんでしたが40年先の巨人族たちとの戦いでは、神様は地球の自転を停止させてまで勝利へと導かれた、驚くべきわざをなされたのです。神様が彼らとともにいる、その本質を忘れていた。目の前の困難に悲しみを覚えた。

 

ヨシュアとカレブは、彼らの反応に怒るというよりも「悲しんだ」。なぜそんな選択をするんだ、神様があなたにいのちを与えようとしている、最高の恵みを注ごうと今、導かれているというのに、どうして?と。彼らは神様のいのちを、御恵みを受けられない事を何より悲しんだ、彼らがこのまま神様から離れ、命を失っていく事を何より悲しんだ。

 

「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない」と、その衣を引き裂きながら(それは最高の悲しみを意味する行動です)訴えるのでした。神様がいる、この最高のいのち、神様から頂いたいのちを喜び勝ち取ろう、頂に進みゆこうではないか、と。

 

この続きはまた明日になりますが、ここまでで一つ私たちは考えたい。あなたがいのちを失われゆく事をだれよりも哀しまれた方がいる。それは、主イエスさまだ。あなたが罪ゆえに滅びていく事を我慢できない。だから自らの神の子としての衣を引き裂き、そのいのちという名の衣を十字架上で引き裂かれ死なれた。あなたの命が失われるなら、裁かれないために、神様と和解を果たすために、わたしがこの身を身代りに十字架に張り付けられ、身を裂かれよう、と決断され、十字架で死なれたのです。しかし、死んで葬られたことによって、私たちの罪の刑罰を完全にその身に受け、なお復活されたことによって私たちの死せるべきいのちを、引き上げられたのです。あなたがいのちを得る事、それこそが我が喜び、と。

 

ヨシュアたちに石を投げ殺そうとしたように、私たちはイエス様に石を投げ、殺す。こんな神など信じたって何になる、私の神はあなたではない、と排除しようとする。しかしそれでも神様はあなたを憐れまれ、救いの道を示されたのです。信じられるだろうか?そこまでされてまであなたに与えたいのちを、あなたは喜んでいるだろうか?神様不在状態になる事を哀しんでいるだろうか?もっと神様を喜び求めようではありませんか。神様がいるから、例え哀しむべき状態であっても喜びに変えて下さるのです。死をいのちに変えた神様が。復活のイエス様があなたの内に住まわれているのです。

 

あなたが石を投げるべきは、神様にじゃない、文句を言うべきは。サタンに石を投げよ。退け、と。私には主が共におられるんだ、私のいのちを贖われたイエス様が私と共にいるんだ、サタンも世も、剣も我に何するものぞ、と告白しようではありませんか。

 

イエス様はおっしゃられた。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」と。神様が共にいるから、その哀しみは喜びへと変えられ、慰めを得る。今日、あなたのために御子イエス様のいのちを惜しまず与えて下さった神様の前に帰ろう。そして本当の喜びを掴みとろうではありませんか。神様はもう最高の乳と蜜の流れる地を用意してくださっている。これを信仰を持って掴み取るか否かはあなたの決断です。