「主はノアに仰せられた。『あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。あなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。』ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。大洪水が起こり、大水が地の上にあったとき、ノアは六百歳であった。ノアは、自分の息子たちや自分の妻、それに息子たちの妻といっしょに、大洪水の大水を避けるために箱舟に入った。きよい動物、きよくない動物、鳥、地をはうすべてのものの中から、神がノアに命じられたとおり、雄と雌二匹ずつが箱舟の中のノアのところに入って来た。それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟に入った。彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、入った。こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った。入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」
創世記7章1-16節
神様はいつでも救いの手を伸ばされている、私たちの安全な砦、盾となって私たちを守ろうとしてくださっている、最も安全な恵みの中に「来なさい」と招かれている。あなたが罪に、サタンに命を奪われる事が無いよう。神様の御目は今日もあなたに注がれているという事を忘れてはいけない。
さて、↑はかの有名なノアの洪水の出来事、それが起こった時の記録です。これが神話という方もいますが、実は地層や世界のあっちこっちの痕跡を見ると確かにあったことが分かる、というか、ノアの箱船の実物も発見されてますしね(^^ゞっと、の話を始めると、今日の分かち合いを書けなくなってしまうのでそれはまた別な機会に。
この当時、世の中は非常に悪い状態に進んでいました。これまでも悲しい罪による事件は多く起こっていたんです。嫉妬による弟の殺害とか、もう目も当てられないような事件も結構あった。それでも神様は彼らに憐れまれ、その目を向け、彼らに愛を注ぎ養いながら、彼らが帰って来ることを待っていた。しかしひたすらに拒否をし、神様に「あまりにひどい」と言わしめるほど堕落し続け、ついに、裁きを降す決断がなされたのでした。
しかし、驚くべきことに神様はいきなりは裁きを降さなかった。それだけあまりに悪い、と分かっていながらも、彼らが神様の大切な作品、神様ご自身の手で造られた子であることには違いない、だから滅びつくすことはできれば避けたい、と120年間の猶予期間が与えられました(当時数百歳生きる人たちでしたから。↑を見ると、ノアもこの時600歳でしたしね)。洪水から免れ救われるための箱船を建設しながら、神様は彼らが悔い改める機会を持ち、待っていた。ずっとずっと。ノアも彼らに悔い改めを、神様の愛をとことん伝えながら待っていた。神様は忍耐をして待っておられたのです(Ⅰペテロの手紙3章20節)。
神様はね、私たちが誰一人滅びる事を望まないし、私たちに愛を向けられているんです。ちょっと↑の箱船に入ったものたちのリストを見てください。人間(神様を信じ従ったノアの家族8人)以外に動物たちも入っているんですよ?まあいけにえの問題や、後の食糧の問題も含めた目的もあったでしょうけど。それにしたって、神様の目から見た「きよい動物」も「汚れた動物」も、その箱船の中に招き入れられていたんです。動物でさえですよ?しかも、きよくない、汚れた動物と定められたものさえ神様は招かれたんです。
聖書に、「主(ようするに神様)の目はあまねく全地をゆきめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力を現される」とあります。神様は、ご自身の愛を注ぎたい、生きてほしい、とその御目を注がれている、神様は彼らにいのちを得てほしい、とまさにその救いに招かれていたのです。しかし、彼らは拒否し続けたのです。裁きの宣言からまだ7日間、最後の機会があったのに。
彼らは神様のくださっている恵み、日々の愛、養いを、拒否していた。好き勝手に生きて何が悪い?神なしでだって俺たちは生きていける、神のくれるものなんて、俺たちには不要、俺たちが求める物をくれないじゃないか、と、いつまでも、箱船、というよりも神様の元に帰らなかったのです。この時のことをイエス様は、「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入る『その日まで』人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべてのものをさらってしまうまで、彼らは分からなかったのです」と証言されています。別に飲み食い、結婚がだめ、というわけではない、要するに彼らは好き勝手に生き、神様の恵みよりも自分たちのお心を大事に生きて神様の愛を失っていた、というのです(まあ厳密にはこの言葉は終わりの時の話なのですが)。
しかし、罪が、サタンが彼らを呑み込んでいる、支配している事に気づいていない。裁きと同時に神様はそのいのちのない、死していく、朽ち果てる者から救い出し、朽ちないいのちの内に招かれていたのです。箱船はまさにその象徴、神様の愛、その家族、養いの中そのもの。ここにいのちがあるんだ、ここに救いがあるんだ、と。
↑で神様は「入りなさい」と言ってますが、これ、正確な意味では「来なさい」ということばなんです。神様はご自身のいのちの内に来なさい、と招かれている、その手を伸ばされていたのです。このままいのちないうちに留まってはいけない、あなたはわたしを侮るかもしれないが、まず入って来なさい、と神様ご自身の内に招かれたのです。
私たちはノアの時代のごとく、罪、サタンに縛られ、生きている。というよりも神様の愛が分からないでいる。本当に神様は愛しているのだろうか?愛しているならどうしてこんな状況に私たちがなる?神様以外にもっと結ばれるべき何か良いものがあるんじゃないか?と彷徨う。しかし神様はその私たちを見捨てないために御子イエス様を私たちに遣わされた。箱船を立てられたように、神様であられるのに人となってまで、しかも赤ちゃんから生まれてこられた。そしてその愛を私たちの内に具体的に見せ、現し、時に癒し、時に励まし、辛い人の横に行き、またその道を導かれた。最後は私たちの罪の身代わりとなるべく、私たちの罪を背負い十字架に架かられ死なれた。私たちの罪の代価を身代りに背負うべく、自らがその死・裁きの中にまで下って行かれたのです。あなたが罪赦され、神様の恵みの中に生きることができるように。天の御国にまで導いてくださるのです。世の終わりまで。
しかし、それにはあなたが世を離れ(死ぬとか、仙人のように生きる、閉じこもるとか言う意味ではなく罪から離れる)、悔い改め、神様の招き、「来なさい」ということばに応答する必要がある。しかし応答するなら神様は喜んであなたを迎え入れ、神様の家族、子としてそのいのちの内に養ってくださる。主イエス様ご自身があなたの内に住まわれ、聖霊様が船頭となって、あなたの生涯を導いてくださるのです。
神様はいつでも救いの手を伸ばされている、私たちの安全な砦、盾となって私たちを守ろうとしてくださっている、最も安全な恵みの中に「来なさい」と招かれている。あなたが罪に、サタンに命を奪われる事が無いよう。神様の御目は今日もあなたに注がれているという事を忘れてはいけない。今日、神様の、わたしのうちに「来なさい」という招きの前にあなたはどう応答するだろうか?