「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。』アブラムは、ひれ伏した。」
創世記17章1-3節
神様は全能の神様です。この全能の神様は、あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えることができるほどあなたを愛しています。あなたを造られた神様として。あなたが立ち帰るのを心待ちにしておられる。私たちはこの神様の完全なる愛の前にひれ伏そう、期待しよう。主があなたを愛されるから。
さて、↑はイスラエル一族の父祖にあたる、最初の人(、アブラハムという人の話。と言ってもこの段階ではまだアブラムですが。彼は、神様の「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という約束を信じ、神様不在の世界から旅立った。神様と共に歩む人生にシフトしたのでした。
しかし、出発した当時のアブラムの年齢は75歳、妻サライの年齢も65歳と高齢。今の医療技術でもこの年齢での妊娠はかなり厳しい物がある。そしてその約束がなされてから何年たっても、いつまでも子供が与えられませんでした。彼も奥さんも悩み、奥さんの提案で、彼らが旅の途中で得ていた奴隷に子どもを産ませ、その子を我が子としよう、そう考えたのでした。しかし、それは神様の御心に反していました。彼らは神様の計画を、全能性を信じる事は出来なかった。そこで神様は13年近くに渡り沈黙されていたのでした。しかし神様は見捨てていなかった、神様はもう一度アブラムに語りかけた、それが↑のことばなのです。
神様はご自身を全能の神様である、と紹介されました。だから、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう」と語られたのです。この神様がいるのだから、神様が導かれる全き道を歩むように、私があなたと契約を結んでいるのだから、と。
ちなみに全能の神、とはどんな意味なのだろう。もちろん「不可能なことは何もない」、と一言で言うとそうなる。聖書でも、御使いも、多くの信仰者も、神に不可能なことはない、と語られ、なんと処女であるマリアが聖霊様によって身ごもり妊娠する、救い主イエス様が産まれるなんてありえない事をなされたこともありますし。
ちょっと話がそれますが、「不可能はない」という言葉を聞くと2人の人物を思い出します。皇帝ナポレオンとヘレンケラーです。2人に共通するのは、「私の辞書に不可能という文字はない」と言ったことです。ナポレオンは「不可能と言う文字は愚か者の辞書にのみ存在する」という高慢から来ていました。彼は最後どうなったか、大西洋の孤島、セントヘレナに幽閉され、最後はヒ素中毒で死んだそうです。
一方、ヘレンケラーは、同様のことを言いましたが、彼女はナポレオンとは正反対で、自らの弱さを知り、しかし同様のことを言います。「十分な時間をかけ、努力を怠らなければ、望んでいることは、なんでも実現できます」と。これは主がいてくださるから、という確信のもとです。そして彼女は「私の辞書には悲惨という文字はありません」と言いました。主にある人生に悲惨はない、というのです。
話しは戻して、この時点でアブラムとサライは99歳と89歳。もう、ますます子供を宿すなんてことは不可能な話です。一般的に見て不可能でしょう。しかし、この言葉が実現し、イサクという子どもが1年後に与えられました。神様は確かにこの約束を果たされたのです。
神様はアブラムに、妻のサライではなく、「全能の神」たるわたしに顔を向けるように、とおっしゃったのです。サライの意見に耳を傾ける事は確かに聡明かもしれない、その意見も分かる、でも神様の全能性をもっとよく考え、信じなさい、と。
実はこの「全能の神」、ということばの意味は、エルは神様、シャダイはお母さんの乳房、という意味です。赤ちゃんにとっては女性のおっぱいは全能。赤ちゃんにとって必要なすべてがそこにあります。栄養や声、暖かい腕の感触。お母さんの胎の中でいつも聞いていたお母さんの心臓の鼓動があります。つまり全能の父なる神様のところには私たちにとって必要なすべてがそこにある、赤ちゃんのような安心感も何もかもすべてそこにあるのです。わたしは、あなたを愛し、あなたにすべてのものを備えている、わたしはあなたと共にい続けるんだ、だからわたしに目を向けるように、そう訴えるのです。
神様の全能性は、愛は、本物ですよ?偽りがありません。あなたがアブラムのように神様の恵みを失い、死んだような13年近くを歩んでいた中で、それでも見捨てず、引き上げられたように、神様は私たちを見捨てることができないのです。だから、わたしたちを取り戻すべく、神の御子たるイエス様を人として生まれさせた。神であられるのにその立場を捨てられないとは考えずに。そして、何の罪もないイエス様に私たちの罪の代価を支払わせる、刑罰・永遠の神様との断絶・死をその身に負わせ、身代わりに十字架に架けられ死なせる事さえできたのです。そんなありえない決断をあなたのためになされたのです。神様は能力的な全能性だけではない、その愛の行動において不可能な事もまたないのです。
そのために、家出した、神様を捨て暗闇の中にいる私たちを引き上げるため、死にて葬られ、陰府にまで降って、私たちを引き上げようとされたのです。そして復活と共に、私たちにその恵みに与らせようとしてくださった。
後はこれを信じるかどうかは、アブラムと同じであなたの決断。この神様の供えられた、イエス様のいのちによって整えられた「完全なる」神様との歩み、神様が整え養い導かれる新しいいのちの内を歩むか、そこなのです。完全たれ?完全にされるのは神様なんです。私たちが完全であるなんて無理。でも神様が完全、全能なる神様だからこそ、この十字架による和解によってイエス様があなたの内に住まわれ、養い導かれる、だからこそ、私たちは神様の完全なる愛のうちに生きることができるのです。「主に信頼する者は、失望させられることがない」と聖書で約束されている通りです。
神様は、憐れみによってその御手を伸ばされている。私たちが不完全なサタンの手の内に縛られる、罪の中にいる事を望まない。いくらイエス様のそのいのちが身代わりにされようとも、私たち自身がこの墓場、暗闇から出る、その御手を取らなければ意味がないのです。ありのままでいい、といつまでもその闇の中に閉じこもっていたら、何のために御子イエス様のいのちを犠牲にされたのですか。この十字架を私たちは侮ってはいけない。私たちはこの神様の完全なる愛の前にひれ伏そう、期待しよう。御子イエス様のいのちにあって結ばれた契約、イエス様ご自身があなたの内に住まわれ養い導かれる、その御心を現される、全き道の上を歩む全きものとさせていただこう。